概要
生没:元久2年6月22日(1205年7月10日) - 文永10年5月27日(1273年6月13日)
別名:相模四郎、覚崇(法名)
官位:正四位下、左京権大夫、相模守
鎌倉幕府第2代執権・北条義時が、継室の伊賀の方との間に設けた息子の一人。異母兄に泰時(第3代執権)、朝時(名越流初代)、重時(極楽寺流初代)などがいる。自身の子孫も有力庶家の一つ(政村流)として、後年12代執権の煕時を輩出している。
若い頃に伊賀氏の変などの難局に巻き込まれた事もあってか、慎重にして思慮深い性格であったと伝わっており、『大日本史』においても沈黙温雅な人物と評されている。また教養人としても知られており、この当時幕府に下向していた公家とも交流を持ち、歌人としても勅撰集に政村の詠んだ歌が多数入集されている。こうした文化的な活動は、朝幕間の協調関係の維持にも大いに繋がったと見られている。
生涯
建保元年(1213年)、幕府第3代将軍・源実朝の御所で元服、祖父である北条時政と、烏帽子親を務めた三浦義村よりそれぞれ一字を拝領し、四郎政村と名乗るようになる。
「相州(義時)鍾愛の若公」とも言われ、兄弟間の序列でもすぐ上の異母兄であった有時よりも上位に置かれていた政村であったが、貞応3年(1224年)の父・義時の急逝と、その直後に発生した伊賀氏の変により、その立場にも揺らぎが生じる事となる。変の首謀者として、生母の伊賀の方が流罪に処される中、執権に擁立されようとした政村にも累が及ぶものと思われたが、兄で執権の泰時は伊賀氏謀反の風聞を否定し、政村も彼の計らいにより事なきを得る格好となった。
これ以降、政村は北条一門の有力者として兄・泰時を支え続け、延応元年(1239年)には評定衆に就任、翌年にはその筆頭となった。その後泰時から経時(第4代執権、泰時の嫡孫)、そして時頼(第5代執権、経時の弟)へと政権が移る中、建長元年(1249年)には引付頭人、同8年(1256年)には兄・重時の引退を受けて連署となるなど、齢50を超えていた政村は一門の中で重鎮として存在感を示すようになる。
同年には、甥の長時が第6代執権に就任、時頼の嫡男・正寿丸(北条時宗)成長までの中継ぎを担っていたが、その長時も文永元年(1264年)に病を得て退任すると、未だ若年であった時宗に代わって政村が、後任として第7代執権に就任した。この時既に政村は60と老齢であったが、同時に連署に就任した時宗を補佐しつつ幕政を主導、宗尊親王(第6代将軍)の更迭や、二月騒動(北条得宗家と、有力庶家の名越流との間で発生した内紛)の収拾に尽力した。
文永5年(1268年)正月、蒙古(元)からの使者が、服属を求める国書を携えて来日すると、この難局を前に権力の一元化を図るべく、18歳になった時宗が晴れて執権職に就任、政村は連署と侍所別当を兼任してこれを補佐する役に回った。後にも先にも、執権経験者が連署に再任するという事例はこの時のみである。
文永10年(1273年)5月に出家し、それから10日後の同27日に69歳にて病没。
創作物における北条政村
大河ドラマ『北条時宗』
演:伊東四朗
作中でも執権、連署、そして北条一族の長老として存在感を発揮するが、一方で史実とは異なり狸親父のような食えない人物として描かれている。時頼、長時、それに足利頼氏が相次いで亡くなった際に行われた鬼払いでは鬼役も務めた。
その直後、時宗が時輔を六波羅に追放することと引き換えに執権就任を辞退し、自身に執権職就任の白羽の矢が立った際は小躍りをして喜び、それまでの侍烏帽子に替えて立烏帽子を新調するなど、執権職へのこだわりと喜びを表した。
ちなみに政村は、時輔の処遇について「いっそ、あの世に追放したらどうじゃ?」と一貫して主張しており、後に時宗が時輔の討伐を決めた際にも「よう決断なさった」と、その決断を評価している。
同作では前述した狸親父としての側面を強調するためか、仮病を使ってのらりくらりと難題をかわそうとする事も多く見られた。政村自身はそうした態度について、「意見が2つに割れている中で、執権たるわしが片方に賛成する意を示すと、必ずもう片方が反発して騒ぎが起こる」と説明、これを正当化していた。
しかしこうした行状が積もり積もった結果、第30話で本当に病に倒れた際には評定の場に居合わせた全員から「いつもの持病でござるか」と仮病扱いされる結果となった。唯一、評定の場から去らず病が本当である事に気付いた時宗に対し「己の手に余る曲者を泳がせる器量を持て」との訓戒を残し、そのまま病没という形で物語より姿を消す事となる。