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平沼騏一郎

ひらぬまきいちろう

(慶応3年9月28日~昭和27年8月22日)  第35代内閣総理大臣。日本の司法官、政治家。

概要

生い立ち

慶應3年9月28日、津山(岡山県)の士族の家に生まれた。

まだ日本が西欧に学んで近代化する途上の時代にあって、平沼は東京帝国大学に進み法学を学んだ。

首相就任まで

平沼は司法省に入省して検事となり、民刑局長、検事総長、大審院長を歴任。

それまでは藩閥財閥の権力を前にして手を出せなかった汚職事件を摘発し、司法省の地位を向上させた。

明治時代には、幸徳秋水が天皇暗殺を企てたとされる大逆事件の裁判に携わり、無政府主義共産主義など外来の思想の流入に危機感を持った。

大逆事件の裁判は「暗黒裁判」として今でも批判があるが、当時の左翼思想に対する危機感・恐怖感は考慮されるべきである。

大正時代になって、関東大震災後の山本権兵衛内閣で首相に懇願されて司法大臣に就任し、それ以降境遇が変わって貴族院議員、枢密院副議長となった。

平沼は「国本社」という団体を結成して、日本精神や祭政一致を主張、天皇を敬愛し、本来の日本への復古を提唱。

しかし元老西園寺公望は復古的な言説を嫌い、平沼は神がかりの迷信家と中傷した。

平沼は、英米追従で事なかれ主義の外交を繰り返した西園寺こそ、国を誤る元凶だと主張した。

平沼内閣

昭和14年1月、政権を投げ出した近衛文麿の強い希望もあって、後継候補となった。

しかし平沼内閣の登場はそのまま復古的な色彩を帯びたのではなく、むしろその施策内容は以前とほとんど変わることがなかった。

近衛内閣期の防共協定強化問題、支那事変の処理、国家総動員法の発動、生産力拡充計画の遂行は、そのまま平沼内閣の中心的課題となった。

平沼が消極的であった議会・内閣・官吏制度の改革といった国内革新政策も、前内閣で行き詰っていたものだった。

内閣の構成も前内閣を継承し、かつ各勢力との均衡を目指すものであった。

軍部大臣、外務大臣を含めた7名が前内閣から留任。

内務大臣には宮中との関係を考慮し木戸幸一、大蔵大臣には財界との関係を考慮し石渡荘太郎、政党との関係を考慮して政友会・民政党から前田米蔵・桜内幸雄が入閣。

また平沼の代わりに枢密院議長となった近衛文麿は、無任所大臣として加わっているという変則的な内閣であった。

平沼内閣最大の懸案はドイツより示された防共協定強化問題であった。

ソ連の共産主義が日本に流入することを危惧し、ソ連封じ込めのために三国同盟が必要と考えて、締結のために努力した。

だが昭和14年8月23日、ドイツがソ連と不可侵条約を結んでしまったため、三国同盟問題は頓挫。

平沼は28日、「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を発表し、就任8ヶ月で総辞職。

欧米流外交に慣れずに単純で正直な日本の政治家にとっては、常に裏面に注意を要する欧米中心の国際政治は気の許せないところがあるので、平沼もこの虚々実々の国際政局に驚き、呆れて政権を投げ出したのであろう。

重臣として

その後再び三国同盟締結の動きが熱狂的に起こるが、この時は平沼は猛反対した。

以前はあくまで反共のための三国同盟推進だったのであって、ソ連と組むドイツと同盟を結ぶ必要はない。

しかも今度の三国同盟推進論者は、ドイツにならって日本も全体主義の新体制を作るべきとまで主張していたが、ファシズム体制は日本の国体に反し、天皇を蔑ろにして幕府を作るようなものであって、平沼にとっては論外であったので、むしろとの協調を目指した方がいいと主張した。

しかし革新右翼はこれを裏切りとしか思わず、平沼は暗殺を謀られて6発の銃弾を撃ち込まれたが、奇跡的に生き残った。

終戦前、一時は交戦論を唱えるが、ポツダム宣言が有条件であり、日本の国体が守られることを確認した上で受諾に転じた。

そのために今度は徹底抗戦を唱える軍人に自宅を焼き打ちされた。

終戦後

昭和21年、平沼は開戦に反対していたにも関わらず、A級戦犯として収容された。

平沼は最年長のA級戦犯であった。

極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷では一切何も語らず、超然とした態度だった。

しかし当時81歳の平沼にまで、判決は終身禁固刑であった。

昭和27年、病気による仮出所後に死去した。

死去により平沼の「戦犯の罪」は消滅した。

語録

  • 「人は万物の霊長として天地の気を享く」「人皆天性に従ふ、一家悉く親和して些の矛盾撞着なく長幼男女其所に安んじて各其本務に努むること寔に人の至純なるもの、之を恢弘すれば一国の総親和世界の総親和と為る」(大正4年9月1日)
  • 「吾々人類は天地の徳を享けたのであります。斯様に天地の徳を享けて生れて居りますから、天地と同じ精神で進まねばならぬ。是が即ち人の徳であり、同時に正義であり、又人道であるのであります」(昭和4年3月17日)

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