綱は土佐自由党の草分けとして知られる。
後、船問屋・吉田健三の養子となり、明治39年に東京帝国大学政治学科を卒業、外務省に入る。
ベルサイユ講和会議には全権随員として参加し、その後イギリス大使館一等書記官などになった。
吉田茂は大正14年から昭和3年に至るまで、奉天総領事となり、外交史上にその名を残した。
すなわち、張作霖の主張する中国ナショナリズムの考え方は、満洲に進出しようとする日本に強く抵抗した。
昭和2年に成立した田中義一内閣は、首相みずからが外相となって、満洲の権益拡大を企図するに至った。
そこで内閣成立後、すぐに関係のある軍人や外交官を集めて東方会議が開かれ、この席で吉田は対中強硬策を主張し、注目されるようになったのである。
その結果、翌昭和3年には外務次官となった。
吉田の考え方は、満洲を日本の特殊地域にしたいというものであったが、世界の中で孤立するような路線には反対し、特に米英と敵対することは望まなかった。
吉田の岳父である牧野伸顕は満洲事変後の時期に重要な役割を果たしたが、軍部、官僚、政党勢力を統合する宮廷勢力の中心人物となり、右翼からは新英米派と目された。
このような人物の女婿である吉田もまた新英米派と見られ、昭和14年には退官を余儀なくされた。
また第二次世界大戦終結直前には和平工作にも関与したが、憲兵隊に拘禁されてしまう。
終戦後、世の中は一転し、吉田はただちに活躍を始めた。
昭和20年8月には東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣となり、続く幣原喜重郎内閣でも留任。翌昭和21年には鳩山一郎追放の後を受け、自由党の総裁となった。
ただちに第一次吉田内閣を組織し、外務大臣を兼任した。
昭和23年には民主自由党を結党し、第二次吉田内閣を組織、以後6年にわたり政権の座にあった。
これは国家の独立、経済復興のため、GHQの協力を得たためである。
この間、昭和26年9月、サンフランシスコ講和会議では首席全権として対日講和条約、日米安全保障条約に調印した。
また南原繁東大総長を「曲学阿世の徒」と言ったり、「バカヤロー」と言ったため前代未聞の首相の懲罰動議が可決されるなど、舌禍事件が多い。
昭和29年には鳩山一郎を中心とする反吉田勢力を結集した日本民主党の成立によって遂に政権を鳩山に譲り、政界の表面から退いた。
しかし、その後も隠然たる勢力を持ち続け、昭和42年に90歳の生涯を閉じた。