この項では、党の正式名称であることから、党の組織について扱う。
それ以外に関しては
党の全体の概要⇒ナチス
詳しい党史⇒国家社会主義ドイツ労働者党史
党主要人物について⇒第三帝国
の各項をそれぞれ参照のこと。
国家社会主義ドイツ労働者党第6回党大会 終了演説
通称:ニュルンベルク党大会
スローガン:「統一と力の大会」
開催期間:1934年9月4日-10日
開催場所:帝国党大会都市ニュルンベルク市/ルイトポルトハイン/国家党大会広場
概要
国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称: NSDAP)とは、かつて存在したドイツ国の政党。ナチ党、あるいはナチスとも。
アドルフ・ヒトラーが指導者として率いて、1933年の政権を掌握後、独裁政権を築いたが、1945年のドイツ敗戦により解党した。
初期は急進右翼組織 (極右)として名を馳せ、1930年9月の選挙戦以降、左翼以外の広範な支持を集める国民政党となり、ワイマール共和政末期には包括政党の色彩が強くなった。
その運動およびイデオロギー、思想原理、理念・支配形態一般をナチズムという。
詳細
成立年月日
- 1918年3月7日
「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」
- 1919年1月5日
「ドイツ労働者党(ドイツ語:Deutsche Arbeiterpartei/略称:DAP)」
- 1920年2月24日
「国家社会主義ドイツ労働者党(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei /略称: NSDAP)」
解散年月日
- 1945年10月10日
解散理由
連合国管理理事会指令第2号による禁止
本部所在地
- ドイツ国/バイエルン州/ミュンヘン市/ケーニヒス広場/ブリエンナー通り45番地『褐色館』
党員・党友数
- 1933年/3,900,000人
- 1945年/8,500,000人
1945年時の850万人という党員数は、当時のドイツ国民の実に10人に1人が党員であったという計算になる。
政治的思想・立場
- ナチズム
- 極右/急進右翼
- 民族共同体
- 汎ゲルマン主義
- 反ユダヤ主義
- 反資本主義
- 反共主義/反ボルシェヴィズム
- 反ヴァイマル共和政
- 反ヴェルサイユ条約
シンボル
- 党鷲章(Parteiadler)
党歌
- 「旗を高く掲げよ」
(別名:「ホルスト・ヴェッセルの歌」)
機関紙
- 「民族的観察者(ドイツ語:Völkischer Beobachter民族的観察者/フェルキッシャー・ベオバハター)」
呼称
正式名称は国家社会主義ドイツ労働者党(National sozialistische Deutsche Arbeiter partei)
前身のDeutsche Arbeiterpartei(ドイツ労働者党)から改名したものである。
日本語訳では国家社会主義ドイツ労働者党と訳されることが多いが、一説によると、国家よりも国民を重視したナチズムの思想的特徴から国民社会主義ドイツ労働者党という訳称の方が適切であるとの説もあり、その説では同じく国家社会主義と訳されるが全くの別物の思想である"Staatssozialismus"と区別する意味でも、日本語では「国民社会主義」と呼ぶのが望ましいとされる。
尚、本項ではより一般的呼称である方を採用し、「国家社会主義」で統一する。
党内部および学術や中立的な立場における正式な略称はNSDAP(エンエスデーアーペー)で、ドイツでは現在もNS(エンエス)またはNSDAPの呼称が使われることがある。
「ナチ(Nazi)」、複数形の「ナチス(Nazis)」及び「ナチ党」の呼び名は、反対勢力がつけた蔑称である。
もともと、ナチスは敵対する社会民主党ドイツ(Sozialdemokratische Partei Deutschlands)や、社会主義者への蔑称として、党名を縮めた「ゾチ(Sozi)」を用いていた。
社民党などもこれに対抗して、党名を縮めた「ナチ」「ナチス」を蔑称に使うようになった。
従って、映画などでナチ党員が自党を指して「ナチス」と言うのは、本来は誤りである。
しかし、これについては日本では同盟国であった当時から周知が進んでおらず、報道などにおいても「ナチス」、「ナチ黨」の表記が一般的であった。
当時は「國粹社会黨」「國民社会黨」などの意訳も使われたが、第二次世界大戦後はほとんど使われなくなった。
社会主義との関係
一見左翼的な名称が並ぶ党名であり、また一時社会主義的な主張をしていたことから左派政党呼ばわりする論者もいる(主にスターリン主義とナチズムの共通性を強調する反共主義者の視点)が、ナチスは当時から右翼政党とみなされていたし、ナチ党自体も右翼を自認していた。
「国家社会主義」という名称はドイツ語において"Nationalsozialismus"であり、日本語的に「国家+社会主義」と切り離せるようなものではなく"Sozialismus"とは全く異なる思想であることに留意されたい。
ヒトラー及び党幹部はこれを「民族共同体主義」的なものと位置付けており、党名の後半に来る「労働者」は、この民族共同体の繁栄に奉仕する尊い仕事をする人々であるとした。そして、彼らをマルクス思想から解放してあるべき姿へ導くことを党の重要な使命であると認識しているなど、社会主義とは異なる労働者観を有していた。
一方で、ナチ党でもヒトラー独裁が確立していない時期にはオットー・シュトラッサーやヨーゼフ・ゲッベルスなど、今日的な意味での社会主義に影響を受けた党員(ナチス左派、ナチス反主流派)も一部にいた。彼らは党内でヒトラー独裁(指導者原理)体制が確立されていく過程で影響力を減らしていった。ゲッベルスはヒトラーに懐柔されて主流派に取り込まれ、1930年にシュトラッサーが党から排除され、さらにナチスの政権掌握後の「長いナイフの夜」事件で突撃隊幹部らが粛清・排除されたことにより、ナチ党内のヒトラー独裁体制が完成することになる。
当時のドイツでは、社会主義は様々な立場の人物に用いられてきた言葉であり、民族主義者にもアングロサクソン的資本主義への嫌悪感から「ドイツ的社会主義の実現」を唱えるということは珍しくなかった。
現代の極右ポピュリストにも、反資本主義的経済政策を推奨する傾向が少なくないという例を挙げればわかりやすいだろうか。
ナチス主流派・反主流派は本来の核心層をどれだけ重んじるかの違いが大きく、主流派が富裕層や貴族階級をも取り込んでいったのに対し、反主流派は労働者層との関係と「褐色革命」に執着していたが、反ユダヤ主義・民族共同体主義・反共主義という等における重要な思想面では違いはなかった。
シンボルマーク
ナチスは19世紀より民族主義の象徴とされてきたハーケンクロイツ(=スワスティカ/鉤十字)を党のシンボルとして採用し、様々な場面で使用した。
また政権獲得後は党旗をそのままドイツ国の正式な国旗に制定した。
- ドイツ国防軍では、海軍においてハーケンクロイツ入りの軍艦旗が採用され、対空識別として国旗に準じた赤帯に白い丸の中にハーケンクロイツを描きこんだものを除けば、軍用機や戦車に描きこむ国籍標章は鉄十字のみ、もしくは鉄十字をメインとしてハーケンクロイツを合わせて描きこむ形だった。
歴代党首
『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』、『ドイツ労働者党』時代を含む。
- 初代:アントン・ドレクスラー(1918年3月7日 - 1918年1月5日)
【役職名】
・ドイツ労働者の平和に関する自由委員会議長
【概要】
『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』を政党として立ち上げた人物。
『ドイツ労働者党』へ組織改編するに当たり、カール・ハラーに党首の座を譲った。
- 第2代:カール・ハラー(1918年1月5日 - 1920年1月5日)
【役職名】
・ドイツ労働者党第一議長
【概要】
『ドイツ労働者党』時代の党首の一人。
『ドイツ労働者の平和に関する自由委員会』を擁護していた秘密結社『トゥーレ協会』の構成員で、『ドイツ労働者党』に改名した際、党首に就任した。
ヒトラーと党の活動方針をめぐって対立し、ドレクスラーの意向もあって党から追放された。
- 第3代:アントン・ドレクスラー(1920年1月5日 - 1921年7月29日)
【役職名】
・ドイツ労働者党第一議長
・国家社会主義ドイツ労働者党第一議長
【概要】
ハラーを追放した後、党首に就任した。
『国家社会主義ドイツ労働者党』に改称した後も党首を務めている。
ヒトラーとの政治闘争に敗れ、名誉党首となって失脚した。
- 第4代:アドルフ・ヒトラー(1921年7月29日 - 1945年4月30日)
【役職名】
・国家社会主義ドイツ労働者党第一議長
・国家社会主義ドイツ労働者党総統(指導者)
【概要】
言わずと知れたカリスマで、最も長く党首を務めた人物。
ドレクスラーと党の活動方針をめぐって対立し、離党を宣言して党委員会に揺さぶりをかけ、党首の座を明け渡させることに成功した。
その後、1921年7月29日に行われた党首選挙において、554票中553票を獲得して正式に党首になった。
本人が自殺したことで党首を離職。
- 第5代:マルティン・ボルマン(1945年4月30日 - 1945年5月2日)
【役職名】
・ドイツ国政府国家社会主義ドイツ労働者党担当大臣
【概要】
自殺したヒトラーの政治的遺言により、内閣を構成する党担当大臣として就任、ヒトラーの遺言執行人にも指定されていた。
就任から3日後に行方不明になるが、後に本人の遺骨が発見され、この日に自殺した可能性が高いことが判明した。
党歌
「旗を高く掲げよ」
(別名:「ホルスト・ヴェッセルの歌」)
党首格のポスト
ドイツ労働者の平和に関する自由委員会
- 議長
ドイツ労働者党
- 第一議長
国家社会主義ドイツ労働者党
- 第一議長
- 総統(指導者)
…ヒトラーが第一議長に就任後、党内の支持者から『総統(指導者)』と呼ばれるようになり、やがて公的にもそのように呼ばれるようになった。法律よりも、指導者の命令が優先される「指導者原理」という制度を確立した。
党最高幹部
総統後継者
ヘルマン・ゲーリングが就任。総統第一の後継者とされ、1941年6月29日に「ヒトラーが任務に堪えられなくなった場合、ゲーリングが総統職を代行する」という総統布告が出されている。「首相兼総統の後継者に関する法」に由来する。1939年9月1日のポーランドへの開戦に際しての国会演説でもヒトラーはゲーリングを第一の後継者として指名している。
副総統(総統代理・総統第二後継者)
総統の名で党のあらゆる問題を処理する権限を持ち、また立法が国家社会主義に即しているかどうか監視するためにドイツ国のあらゆる法律制定に参画すると定められていた、平時は総統に次ぐNo.2の地位。総統第二後継者でもある。副総統ルドルフ・ヘスが失脚した事で廃止。
党全国指導部
全国指導者(ライヒスライター)
総統を補佐する党の全国指導部を形成するメンバーの階級。
担当分野において全権を任されており、総統にのみ責任を負った。
ゲーリングを除いて、全員が任された担当分野の党内組織の長である。
- 総統後継者
- 副総統(総統代理・総統第二後継者)
- 総統官房長(総統代理幕僚長)
- 全国財政指導者
- 全国宣伝指導者
- 全国組織指導者
- 全国出版指導者
- 全国司法指導者
- 全国農政指導者
- 全国農民指導者
- 全国書記指導者
- 全国労働指導者
- 全国国防政策指導者
- 全国植民政策指導者
- 全国青少年指導者(全国ヒトラー・ユーゲント指導者)
- 対外政策全国指導者
- 親衛隊全国指導者
- 突撃隊幕僚長
- 党最高裁判所長官
- 党第二最高裁判所長官
- 党国会議員団長
全国指導者(ライヒスフューラー)
全国指導部のメンバーではない党内組織の長。
ただし1934年以降の親衛隊全国指導者、青少年全国指導者、労働全国指導者はライヒスライターを兼任していたため、全国指導部のメンバーであった。
- 全国女性指導者
- 全国健康指導者
- 全国体育指導者
- 全国学生指導者
- 全国大学教員指導者
党官房
- 党官房長
- 総統官房長
党裁判所
- 党最高裁判所長官
- 党第二最高裁判所長官
部局
- 党中央政治委員会事務局長
- 全国組織指導者
…組織局
- 全国書記指導者
…書記局
- 全国司法指導者
…司法局
- 全国財政指導者
…出納局
- 全国宣伝指導者
…宣伝局
- 全国出版指導者
…出版局
- 全国農政指導者
農業政策局
- 全国国防政策指導者
…国防政策局
- 対外政策全国指導者
…対外政策局
- 新聞全国指導者
…新聞局
地方幹部
ナチスでは、党を運営するにあたって規模の段階に応じて組織を置き、それぞれに指導者を任命した。
- 大管区指導者
ナチ党の地区区分である大管区の指導者。
1934年に国家の行政区分である州の機能が一時停止されたことで、事実上の地方行政の最高権力者になった。(形式的な最高権力者は州首相)
また、併合、占領によって獲得した領土には『帝国大管区』が置かれ、帝国大管区指導者が任命されるようになった。
- 管区指導者
- 地区指導者
- 拠点分区指導者
- 細胞指導者
- 街区指導者
- 支部指導者
- 組合指導者
- 班指導者
党中央組織
党本部
【党本部中央】
- 党全国指導部(Reichsleitung/ライヒスライトゥング)
総統と各組織の長である全国指導者達によって組織される党の最高指導機関。
- 党官房(Partei-Kanzlei/旧:副総統官房)
失脚したルドルフ・ヘス副総統の副総統官房を改組して成立。党本部直属機関。マルティン・ボルマン官房長が率いる。
- 総統官房
フィリップ・ボウラー官房長が率いるヒトラー総統直属の実務機関。
- 副総統官房(総統代理幕僚部)
ルドルフ・ヘス副総統直属の実務機関。ヘス副総統失脚後に党官房として改組される。
【党裁判所】
- 党最高裁判所
- 党第2最高裁判所
【党部局組織】
- 党中央政治委員会
- 組織局
- 書記局
- 司法局
- 出納局
- 宣伝局
- 出版局
- 報道局
- 農業政策局
- 国防政策局
- 対外政策局
【党国会議員団】
- 国家社会主義ドイツ労働者党国会議員団
党地方組織
- 大管区(Gau)
- 管区(Kreis)
- 地区(Ort)
- 拠点分区(Stüzpunkt)
- 細胞(Zelle)
- 街区(Block)
- 支部(Stelle)
- 組合(Mitglieder)
- 班(Zug)
党下部組織
ナチスの下部組織は党の運営に必要なもの他、政治・経済・軍事・教育と行政全般に渡って設けられたが、ここではpixiv内にイラストが存在する組織を挙げる。
親衛隊(SS)
元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織の親衛隊として1925年に創設された。
その後、ハインリヒ・ヒムラーの指揮のもとで勢力を拡大し、国内外の敵性分子を諜報・摘発・隔離・収容・看視する準軍事組織として発展する。
- 一般親衛隊(Allgemein-SS)
武装親衛隊が発足した事で、その他の警察・行政関連の任務に当たる親衛隊を区別するために生まれた呼称。
- 武装親衛隊(Waffen-SS)
親衛隊が拡大する中で、LAH、SS-VT、SS-TVといった火器で武装した戦闘部隊は武装親衛隊へと発展・重武装化し、第2次世界大戦では陸海空軍に次ぐドイツ4番目の軍隊として大いに活躍した。
なお、黒服は一般親衛隊だけの制服ではなく、親衛隊全体の制服であり武装親衛隊においても着用される。
突撃隊(SA)
エルンスト・レームを中心に1921年に結成された準軍事組織。
1919年にナチスが主催する演説会における他党からの妨害行為を排除するために結成された組織を前身とし、政敵との抗争やヒトラーの護衛などに従事し、初期のナチスを支えた(なお、当時のドイツでは、様々な政党が類似の組織を持っており、そこまで奇異なものではない)。
やがて、単なる護衛組織を徐々に飛び越え、ナチス内では強大な権力を持つようになり、親衛隊、ヒトラーユーゲント、国家社会主義航空軍団、国家社会主義自動車軍団などは全て突撃隊の下部組織だった。
しかし、規模が大きくなりすぎたことで統制が困難になったことや、突撃隊とヒトラーの路線が対立したことなどから、レームを始め多くの幹部が親衛隊に粛清される。
この事件で規模や権限が大幅に縮小され、下部組織が次々と独立して党直轄の下部組織に昇格。その後は青年に対する軍事訓練が主要任務となった。そのため、不幸中の幸いか戦後は具体的な戦争犯罪に問われることはなかった。
ヒトラーユーゲント(HJ)
ナチスの青少年教化組織。ドイツの10歳から18歳の青少年は全員加入が義務づけられた。
年齢・性別により組織は最終的に以下のように細分化された。
- ドイチェユングフォルク(DJ) - 男性 10~14歳
- ヒトラーユーゲント(HJ) - 男性 14~18歳
- 少女団(JM) - 女性 10~14歳
- ドイツ女子同盟(BDM) - 女性 14~17歳
- 信念と美(Glaude und Schünheit) - 女性 18~21歳
国家社会主義航空軍団(NSFK)
ヴェルサイユ条約で空軍の保有を禁止されていたドイツにおいて、団員にグライダーや飛行機の操縦の訓練を行い、再軍備後すぐに空軍を設立する目的で作られた準軍事組織。
国民社会主義自動車軍団(NSKK)
当時貴重であった車やオートバイなどの運転技術・メンテナンス技術の指導のために作られた組織。
自動車運転者の援助や、交通整理なども担当した。後に兵站部隊に配属され、当時まだ馬に頼っていた物資輸送の自動車化に従事していた。
国家労働奉仕団(RAD)
もともとは失業者対策として公共工事を行う目的で作られた組織を前身としている。
アウトバーンの建設を行い、戦争勃発後は軍用道路、飛行場、鉄道の建設、保守などが様々な市民サービス、軍事建設、農業計画に従事した。
国民突撃隊(Deutscher Volksstur)
大戦末期の1944年、兵力不足の解消と本土防衛のために結成された民間軍事組織。
16歳から60歳の一般市民で構成され、指揮官にはナチスへの忠誠心が高い者が選出された。しかし訓練、武器、弾薬、物資、士気全ての面で大幅に不足していた。組織名は「ドイツ民族の嵐」と訳される。
沿革
国家社会主義ドイツ労働者党史の項を参照。
著名な党関係者
第三帝国の項を参照。