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岡部正綱の編集履歴

2022/12/19 14:50:20 版

編集者:KISN

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岡部正綱

おかべまさつな

岡部正綱とは、戦国武将の1人。駿河国の国衆で今川家臣であった岡部氏の一門の1人。今川、武田、徳川の主君を変え、戦国の世を巧みに渡り歩いた。生没年1542~1583年。

概要

岡部正綱は、天文11年(1542年)に今川義元に仕えていた岡部久綱の嫡男として、生まれる。

幼少期は、駿府で人質として預けられていた松平竹千代ことのちの徳川家康を親しかったと言われるが、当時の一次資料には見られないので、真偽は不明。

正綱の初見は、弘治3年(1557年)に僅か齢16にして初陣を果たし、兜首を2つも上げるという目覚ましい武功を立てる。

桶狭間の戦いで義元が討死し、家督を継いだ今川氏真を支え続ける。

しかし、永禄11年(1568年)に遠江は今川家から独立して織田信長と同盟を結んだ徳川家康が侵攻し、駿河は甲駿相三国同盟を破棄した武田信玄が侵攻したことで今川氏は滅亡する。

駿河にいた多くの今川家臣が武田方に内通・降伏する中で、正綱は徹底抗戦を展開。翌年、武田軍が北条氏と敵対し撤退した際には、駿河今川館を奪還。武田軍が戻って来ると、徹底抗戦を再び展開。

この時、信玄からは「一人の兵を得るのは容易いが、一人の将を得るのは難しい」とまで評された。信玄は様々な手を使い正綱を懐柔し、正綱はようやく武田の軍門に下ることになる。

なお、詳細は不明ながら駿河の旧今川家臣と比べて、正綱はかなり厚遇されていた。

武田家家臣となった元亀元年(1570年)の駿河花沢城攻めに参戦し、駿河平定に貢献した。西上作戦においても同3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いや翌元亀4年2月の岩村城の戦いにも馬場信春の先陣に属して参戦し、活躍した。

信玄亡きあとも、あとを継いだ武田勝頼を良く支え、天正2年(1574年)の高天神城攻めや同3年の長篠の戦いにも参加している。

その傍ら、武田水軍を率いていた将の一人でもあった。

武田家から厚遇されたいた正綱だが、同9年(1581年)の高天神城が徳川軍の攻撃を受けた際に、勝頼が援軍を送らず、正綱の同族で城代であった岡部元信ら以下ほぼ全ての城兵が討死したことで、武田氏に対する不信感を覚える。

同10年に甲州征伐が始まると、既に徳川方に内通していた穴山信君の誘いを受けて、徳川方に内通。武田滅亡後は徳川氏家臣となった。

その僅か2月後に本能寺の変で信長が自害し、京にいた信君が巻き添えを食らって土民に殺されると、家康は武田旧領を取り込みべく行動を開始。

正綱は旧武田家臣の調略を進めつつも、甲斐に派遣されていた織田家家臣の河尻秀隆を取り込もうとしたが、秀隆が不信な行動を取り、家康が派遣した家臣を殺害した為、一揆を先導させて秀隆を襲撃させ、死に追いやった。

その後も正綱は、平岩親吉本多正信らと共に甲斐国内の統治に貢献し、譜代同然の扱いを受けるが、徳川家家臣になって1年程で急死する。

正綱は旧武田家臣の調略の為に毎晩酒宴を開いており、過度な飲酒が祟って急性アルコール中毒が原因だったとされている。

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