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神聖ローマ帝国の編集履歴

2012-05-05 15:23:21 バージョン

神聖ローマ帝国

しんせいろーまていこく

中世ヨーロッパに存在した帝国。

ヘタリア神聖ローマについてはそちらを参考のこと。

概要

ドイツ語:Heiliges Römisches Reich

ラテン語:Sacrum Romanum Imperium

イタリア語:Sacro Romano Impero

ローマ帝国の後東フランク王国をへてヨーロッパに「再建」されたローマ帝国。

しかし『統治体制』はかつてのローマ帝国とはほど遠かった・・。

962年~1806年、844年間存続したが、最終的に神聖ローマ加盟国が脱退し消滅。


俗称 神聖ローマ

名称 11世紀(ローマ)帝国→12世紀 神聖なローマ→13世紀 神聖ローマ帝国→1512年

『ドイツ人の精神的支柱の一つ』

当時の風刺

Ce corps qui s'appelait et qui s'appelle encore le saint empire romain n'était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.

(Voltaire, 1694.11.21-1778.5.30.)

神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。

(ヴォルテール著『歴史哲学序論  諸国民の風俗と精神について』70章)より)

俗称:神聖ローマ

国歌

Die Kaiserhymne des Heiligen Römischen Reichs 神聖ローマ帝国皇帝讃歌 ハイドン

Deutsche Kaiserhymne 1797

Gott Erhalte Franz den Kaiser 1804 - 1918

Gott Erhalte Franz den Kaiser 神よ、皇帝フランツを守り給え

オーストリア帝国 - オーストリア=ハンガリー帝国

Anthem of Austria-Hungary

オーストリア - ハンガリーの国歌

歴史

ドイツの歴史学界ではこの神聖ローマをカール大帝シャルルマーニュ)から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。



これは神聖ローマ帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。


神聖ローマ帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが

中世盛期の

  1. 三王朝時代
  2. ザクセン朝
  3. ザーリアー朝
  4. ホーエンシュタウフェン朝

上記の王朝で事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。


神聖ローマ皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。


歴代の神聖ローマ皇帝ローマ帝国」という名目のためにかつてのローマ帝国帝都イタリアローマ支配権を唱え度々侵攻した。(イタリア侵略戦争

当初神聖ローマ皇帝は教皇権に対して優勢であり皇帝たちは度々教皇庁に介入していたが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった。


この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている。


1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する

大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。


14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになりさらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。


この間異なる家門の皇帝が続く跳躍選挙の時代が続いたが

1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家帝位帝爵をほぼ独占するようになった。

ハプスブルグ帝国時代)


マクシミリアン1世大帝/通称最期の騎士)治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。(連邦的帝国


16世紀のカール5世の治世に始まった宗教改革によって神聖ローマはカトリックプロテスタントに分裂し宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。


宗教対立は収まらず、1618年に三十年戦争が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。


1648年のヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ諸侯の協力による神聖ローマの集団防衛という神聖ローマ独特の制度が確立することとなった。

後、プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊し、神聖ローマはやがて機能不全に陥った。


19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受けフランス帝国に従属するライン同盟(国家)に再編された。

オーストリア帝国に蔵変え

神聖ローマ帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると

既に「オーストリア皇帝フランツ1世オーストリア帝国)は存続」を称していた

神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。

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