このムチの痛みに声を上げるなら、
不当なる支配に声を上げぬなら、
コムラム・ビームよ、お前は森の女神の息子ではない。
主人公の1人、ビームが歌う歌より。
責務とは行為そのものに有り、決して、その結果ではない。
私は結果を求めない。
最後の最後の血の一滴となるまで、立向うのみ。
主人公の1人、ラーマの台詞より。
出典はヒンドゥー教の聖典「バガヴァッドギーター」2章42節「貴方の責務は行為を成す事そのものに有り、決して行為の結果に有るのではない。結果を求めて行為を成さず、無為に終っても、それに執着してはならない」。
概要
インドではコロナによる延期などがありつつも、3月25日に公開された。日本では2022年10月21日公開。
インド映画史上最高の製作費7200万ドル(約97億円)をかけて制作された超大作。
実在したインドの革命家であるコムラム・ビームと、ラーマ・ラージャを主人公としたアクション映画。
2023年3月に行われた、第95回アカデミー賞では、後述のナートゥがアカデミー歌曲賞を受賞した。インド映画がアカデミー賞を受賞するのは史上初である。
なお、「男の友情」がテーマの1つである為、同じ監督の前作である「バーフバリ」におけるシヴァガミやデーヴァセーナのような個性的で物語を牽引するような女性キャラは登場しない。
皮肉にも「架空の古代」を舞台にした「バーフバリ」の女性キャラは現代的であり、「あったかも知れない近代」を舞台にした本作の女性キャラは古典的と言える。
あらすじ
イギリス軍にさらわれた少女を助けるためやってきたビームと大義のため警察官になったラーマ。
彼らは互いに正体を知らぬままに友情を育み、唯一無二の親友となる。
しかし、やがて運命により彼らは互いに戦わざるを得ない事となる。
物凄くわかりやすく言えば、親友の2人がケンカして仲直りして一緒にイギリスと戦う話。
ナートゥ
本作の中でも取り沙汰されるのが、ナートゥ。インド映画の最大の特徴であるダンスシーンの中の一つであり、本作でも最大の見どころのひとつとして紹介される。
イギリス人のパーティ会場に現れたビームとラーマの二人が、イギリスの紳士を相手に華麗なダンスであるナートゥを披露するのだが、その際にナートゥという単語を連呼しながら、華麗かつ激しいダンスを披露する。
そのダンスシーンの余りの強烈さから、本作の視聴者は必ずナートゥを連呼するほど。
なお、日本語字幕での「ナートゥを御存知か?」の名セリフは、同じ監督の前作である「バーフバリ」の「国母」(原文ではラージャ・マータ=王の母)や「この宣誓を法と心得よ」(原文を直訳すると「これこそが我が言葉であり、我が言葉こそが法である」)などと同じく、字幕の字数の制限や意訳から偶然生まれた「名訳」である、
スタッフ・キャスト
- 監督・脚本 S・S・ラージャマウリ
登場人物/出演者
- ビーム/NTR.jr
イギリス総督に連れ去られた村の少女を救う為に奔走する。
- ラーマ/ラーム・チャラン
イギリス政府の警察官。大義のためにスコットに忠誠を尽くす。
- シータ/アーリヤー・バット
ラーマの許嫁。村でラーマの帰りを待ち続ける一途な性格。
- ヴェンカタ/アジャイ・デーヴガン
幼少期のラーマに影響を与えた人物。
- スコット/レイ•スティーブソン
残虐非道なイギリス総督。
- キャサリン/アリソン・ドゥーデイ
スコットの妻。夫同様残虐非道。
- ジェニー
スコットの姪。相手がインド人であろうとも分け隔てなく接する優しい女性。
余談
実は、本作のシーンで使われているイギリスのシーンでは、コロナ禍の影響によりイギリスでの撮影が行われず、ウクライナで撮影された。
撮影された時期は2021年だが、翌年の公開直前となる2022年2月24日にはロシアによるウクライナ侵攻が始まった。特に、ウクライナで撮影されたのは、上述のナートゥのシーンであり、出演者にとっては重要なシーンである為に、かなり複雑な心境になったという。
また、エンディング・クレジットではインド独立の英雄達の肖像が次々と映し出されるが……この「インド独立の英雄達」の中には日本人が良く知るマハトマ・ガンディーやジャワハルラール・ネルーが入っていない。
実は、この映画の製作・劇場公開の時点で、インドではガンディーやネルーの系譜や思想を継ぐ政党は野党であり、政権与党はヒンドゥー教原理主義者の支持を受けている政党である。
この為、(映画の製作・劇場公開の時点の)インドでは学校の教科書からガンディーやネルーの功績が削除され、インド独立は非暴力不服従ではなく、武力闘争によって勝ち取られた、という歴史観が学校で教えられているのである。(インドの政権与党にとってガンディーやネルーの業績を学校で教える事は、ある意味で公費≒イロイロアレアレな権力者にとっては「自分達の金」を使って「商売敵」の宣伝をするようなモノなのだ)
一歩間違えば、この映画も「時の権力者に阿諛追従する映画。エンタメとして出来がいい分、余計にタチが悪い」となってしまうが、同時に「ヒンドゥー教徒の実在の英雄」をモデルにしているビームが身を隠し潜伏する為とは言えムスリムのフリをする、という場面は、インドの現政権の支持層であるヒンドゥー教原理主義者にとっては、かなり冒涜的な内容であり、その点を批判されている。
喩えるならばこの作品は、戦時中の日本や現代の中国で作られた一見すると国粋主義的な作品の中に「国粋主義」「時の政権の主張に沿った作品」だけでは説明困難な「異物」「違和感」が有るような(前者であれば「日本人の英雄」が朝鮮半島・台湾などの植民地出身者として、後者であれば「漢民族出身の英雄」が少数民族出身として描かれるようなもの)、極めて政治的なエンタメ、それも読み解き評価するのが一筋縄ではいかないような政治的なエンタメなのだ。
更に、皮肉にもと言うべきか、判った上でそのような脚本にしたのかはともかく、劇中では手を取り合った2人の主人公だが、現実ではビームのモデルの出身地を含むテランガーナ州は、ラーマのモデルの出身地を含むアーンドラ・プラデーシュ州から2014年に分離・独立しており、両州の仲は極めて険悪である。
ちなみに、アーンドラ・プラデーシュ州からのテランガーナ州の独立を推進した人達の中にはビームのモデルとなった人物を英雄視している人達が少なからずおり、この分離独立運動にはビームのモデルとなった人物の影響が有るとされている。