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ノモンハン事件の編集履歴

2023-07-26 11:29:10 バージョン

ノモンハン事件

のもんはんじけん

1939年、大日本帝国・満州国軍がソ連・モンゴル軍と交戦した紛争。停戦後の処理はソ連優位に進んだものの、ソ連軍の犠牲は日本軍のそれを上回っていた。

背景

1930年代、大日本帝国(以降、日本と略称)とソビエト連邦(以降、ソ連と略称)の間では張鼓峰事件などの国境紛争が多発していた。

そして1939年、ソ連の傀儡国・モンゴル人民共和国の軍隊が日本の傀儡国・満州国へと領土侵犯を行った。


概要

第一紛争

5月6日、満州国軍は、満蒙国境を侵犯してきたモンゴル軍を撃退した。しかしその後、ソ連・モンゴル(以降、ソ蒙と表記)の陸空軍が満州へと侵攻。満州国軍は日本の関東軍と共にソ蒙軍を迎え撃った。

陸戦では、日本と満州国(以降、日満と表記)が不利な状態で終了したのに対し、空戦では日満が圧勝した(ソ連軍は54機の戦闘機を失ったが、日本側の戦闘機の損害はゼロだった)。


第二次紛争

同年7月、ソ連軍が越境爆撃を行ったことにより、紛争が再発。さらにソ蒙陸軍も侵攻を開始したため、日満軍はそれを迎え撃った。当紛争は激戦となり、日ソ両軍がかなりの犠牲を負った。

そんな中、ソ連がドイツとの間に不可侵条約を締結。これにより、ソ連に対するドイツの脅威が消え去ったため、ソ連軍が現在以上の規模の軍を向けてくる可能性が生じた。そのため、日本は停戦を決定した。


紛争の終結

日本はソ連と停戦をし、国境線はソ連側の主張通りになった。

しかし、軍の損害は日本よりソ連の方が多かっため、日本が一方的に敗北したわけではない。


その後

その後、ソ連軍は日本の脅威が減ったことによって、ドイツと共にポーランドを分割した。さらに、フィンランドへと侵攻した。だが、ノモンハン事件同様ソ連軍は戦争には勝利したものの、フィンランド軍よりも多大な犠牲を被った。

前述した通り、日本と反ソで一致していたドイツがソ連との間に不可侵条約を締結したことにより、日本は単独でソ連と敵対することになった。日本はその状況を打開するべく、日ソ中立条約を締結した(ただし、国内においては反共政策を継続した)。

だが、その2ヶ月後にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連へと侵攻。日本は関特演でソ連を牽制したものの、ノモンハン事件によるトラウマもあって、中立条約を堅持して対ソ侵攻は行わなかった。

しかし、太平洋戦争で日本が劣勢になると、ソ連は中立条約を破棄して対日参戦を実行。

日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受託して降伏したが、ソ連軍は日本が降伏した後も侵攻を続けた。この際に、ソ連が国際法に違反して不法占拠した北方領土は、現在も日本国ロシア連邦の間の紛争地域となっている。


関連項目

日ソ国境紛争

張鼓峰事件

  • 篠原弘道…当紛争において、大日本帝国陸軍の戦闘機の操縦者として参戦。「東洋リヒトホーフェン」と呼ばれ、ソ連の戦闘機を多数撃墜したが、戦死した。
  • 冬戦争…前述した通り、ソ連がフィンランドへと侵攻して勃発。戦後の講和条約はソ連優位に進んだものの、ソ連軍の損害はフィンランド軍のそれ以上だった。
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