武則天〈武则天〉(ぶそくてん)
世没:623年(武徳6年)? - 705年12月16日(神龍元年11月26日)
唐の五代皇帝。高宗の皇后。諱は武照(武曌)。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた(在位:690年10月16日 - 705年2月22日)。
中国では古来より「同姓不婚の原則」が存在し、唐の歴代皇帝と武則天も当然姓が異なる。歴代王朝は同じ姓を継ぐ者が治めることが原則だったため、武周朝を建てたのは必然と言える。
日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。最近の中国では彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。
中国語ではウー・ツーティエンもしくはウー・ツォーティエン(Wu Zetian)と呼ぶ。
元々は大宗の妾であったが、高宗に見初められ皇后となる。高宗に讒言して寵愛を競ったライバルの王皇后や蕭淑妃を惨い方法で処刑したとされ、やがて病弱な高宗に代わって国政に係わるようになる。
高宗の死後は皇太后として実権を握り、皇族たる李一族の反乱を次々に打ち破って皆殺しにする。
後継ぎであった自分の息子さえ殺して、(先述のように李一族ではないため)ついには国号を周と改め、自ら皇帝の座に登る。
漢代の呂雉、清代の西太后とともに『中国三大悪女』のひとりに数えられる。(これに妲己や江青を加えて中国四大悪女と呼ぶこともある。)
しかしながらこの悪評については「男優位の儒教社会で、女の身で皇帝になった」ことに対する儒教徒たちの反発というのが一因でもある。実際には彼女の統治は非常に優れたものであったともされ、彼女の政治に反乱を起こすほどの不満がなかった庶民たちからは李一族の造反への賛同がほとんどなかったともいう。結局、殺されたのは庶民の気持ちから離れた私欲で皇位を狙った皇族たちだったのである。
また多くの有能な人物を地位を問わずに抜擢しては信任していた。特に老宰相・狄仁傑からは数々の諌言を受け、彼女もそれを受け入れていた。来俊臣などの酷吏を使って恐怖政治を敷いた面もあるが、最終的には彼女自らそうした酷吏を一掃している。人を見る目については後代の歴史家も認めるほどで、彼女が晩年に抜擢した人物の多く(姚崇・宋璟など)は、のちの玄宗皇帝の治世を支える立役者ともなっている。さらにそれまで政治に関わる官僚たちが家柄や血統によって優遇されていた風習を、試験や実績で測る方向へと転換させたとされており、古い習慣で固められた王朝政治に新たな方向性を示すきっかけとなったともされる。
歴代の中国王朝は代替わりの度易姓革命により数千万単位の犠牲を排出していたが、武則天は易姓革命を起こすことなく皇位を簒奪した唯一の皇帝といえる。
長らく悪女と呼ばれていたものの、男女平等を掲げる中国共産党が中華人民共和国を樹立すると一転して共産党政府による再評価が始まり、旧文化の破壊を掲げた文化大革命の最中においても江青が則天武后を尊敬していた事から例外的に国を挙げて賞賛され続け、文革最盛期にはチャイナドレスに代わる女性の正装服として江青直々に則天武后をイメージしデザインしたワンピース「江青裙」が作られたほどだった。文革終了後もその流れは変わらず、政府お墨付きのドラマや映画が度々制作されるなど、現在では中国本土において則天武后は公的に偉人・名君として評価されている。
また、現在の中国共産党においても則天武后は曹操と共に、文化大革命の頃と同様特別視している存在らしく、その描写に関しては党名義で度々注文を付けている。最近では不夜城のアサシンの容姿に関してクレームを付けたりしている。
余談
- 在位中の〈元号〉を頻繁に変えたことでも有名。
元号
- 光宅:684年
- 垂拱:685年 - 688年
- 永昌:689年
- 載初:689年 - 690年
- 天授:690年 - 692年
- 如意:692年
- 長寿:692年 - 694年
- 延載:694年
- 証聖:695年
- 天冊万歳:695年
- 万歳登封:695年 - 696年
- 万歳通天:696年 - 697年
- 神功:697年
- 聖暦:698年 - 700年
- 久視:700年 - 701年
- 大足:701年
- 長安:701年 - 704年
- 「則天文字」と呼ばれる新たな字体の漢字を創出させたことでも知られる。自らの諱として用いた「曌(照)」をはじめ、「𠀑(天)」、「埊(地)」、「𡆠(日)」、「囝(月)」、「〇(星)」など、合計で17文字程度の新たな文字が従来の漢字に代えて用いられたという。武則天の死後も837年に正式に廃止されるまで100年以上にわたって使用され続けたといい、中には「圀(國、国)」のように数百年後の他国において人名に用いられた文字も存在する。
関連人物
狄仁傑
自ら抜擢した中で最も信頼・重用した寵臣。元々地方官吏として名が知れ渡っていたほどの人物だったが、上司の不興を買って左遷されていたところ、武則天の肝煎りで齢61という高齢で中央官吏の高官に抜擢された。その後、その有能さと豊富な経験、弁才から武則天の絶大な信頼を獲得し、更なる抜擢を重ねて宰相へと爆速で成り上がった。
武則天は自分より年下であるにもかかわらず仁傑に敬意を表して「国老」と呼び、その陳言のほとんどを受け入れていたほどで、高齢だからと引退を申し出ても許可せず、その死後は「なぜ天は私から国老を奪ったのか」と嘆き、晩年まで惜しみ続けたという。
駱賓王
同じ時代の詩人。
元官僚だったが武則天の時代に出世の見込みは無いと思い辞職する。
その後、武則天に対する反乱の檄文を書く。
その檄文を読んだ武則天は最初の内は鼻で笑っていたが「一抔之土未乾、六尺之孤安在(先帝の陵墓の盛土は乾いてさえいないのに、その遺児はどこに居るのか?)」の一節を見て、
「これほどの才人を不遇な状態に置いていたのは宰相の責任である」
と言ったという。
関連項目
韋后:息子の嫁。こっちは本物の悪女として名高いが、中国三大悪女のひとりに数えられた武則天よりはまだ穏やかだったとされる。