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カツトップエースの編集履歴

2023-09-24 20:51:44 バージョン

カツトップエース

かつとっぷえーす

jraの競走馬・種牡馬。1981年の二冠馬(皐月賞・東京優駿(日本ダービー))。

プロフィール

生年月日1978年4月20日
英字表記Katsu Top Ace
性別
毛色栃栗毛
イエローゴッド
アニコット
母の父Acoropolis
生産堀忠志(北海道様似町)
馬主勝本正男
調教師菊池一雄(美浦)
主戦騎手大崎昭一

概要

生い立ち

カツトップエースは1978年4月20日、北海道様似町の堀忠志牧場に生まれる。

父イエローゴッドは英国産馬。重賞3勝、2000ギニーでは三冠馬・ニジンスキーの2着に入っている。

アイルランドに種牡馬として3年間滞在し、その後日本へ輸入される。

主な産駒としては皐月賞馬ファンタスト、桜花賞馬ブロケード。母父としてはヤエノムテキなど。

母アニコットはイエローゴッドと同じく英国産馬で現役時は2勝。1970年に日本へ輸入された。産駒は11頭いるが、本馬以外にはシンザンとの仔カツトップガールの4勝が最高。

母の父アクロポリスは2頭と同じ英国産馬で、12戦7勝。大レースの勝ちこそないがキングジョージ2着、英国ダービー3着。全兄が名ステイヤーなこともあり種牡馬になった。



2頭が交配し生まれたアニコットの1978は、四白流星栃栗毛。さらに大型馬で、見栄えがよかった。

2歳末になると門別町の板東牧場で育成が開始された。勝本正男氏に購入されたカツトップエースは、美浦の菊池一雄厩舎へ入厩した。カツトップエースの名前は、冠名の「カツ」にトップエースと続け、三冠獲得を狙っての命名だったという。



2歳(1980年)

1980年7月5日、札幌のダート1000m新馬戦で的場騎手を鞍上にデビュー。果敢に逃げたが6馬身離された2着に敗れる。しかし折り返しの新馬戦で1番人気に答え初勝利を挙げた。

しかし、条件戦2回は6着と3着と連敗。しかし400万下で2馬身差離し2勝目を挙げる。

しかしその後はオープン戦で5頭立ての4着、朝日杯でテンモンの10着に敗れ目立たないまま2歳を終え、笹針をうち休養に入る。



3歳(1981年)

3歳になってからの初出走は2月末の800万下条件戦。芝の1800m。しかし4着に敗れる。

皐月賞トライアル・スプリングSに出走…するはずだったが、熱発により回避。

この時点でカツトップエースは皐月賞に出走するには獲得賞金が足りなかったのだが、サニーシプレー、リードワンダー、ジョーオラトリオ、アグネスベンチャーなど賞金上位の関西馬が次々と故障し、出走が可能になった。しかし朝日杯・バイオレットsの2戦に騎乗していた増沢騎手が別の馬を選んだために、鞍上は実績十分ながらも怪我明けで手が空いていた大崎昭一騎手に委ねることになる。


皐月賞

そして本番、第41回皐月賞は1981年4月12日に、曇・良馬場の中山競馬場で開催された。

スプリングSを危なげなく勝ったサンエイソロンが皐月賞で本命視されていたものの、脚部不安で出走回避。替わって東京3歳sと弥生賞を連勝したトドロキヒホウが1番人気に押される。カツトップエースの勝ち星は、新馬戦と条件戦のみで重勝未勝利。有力馬の回避により出走が叶ったカツトップエースの人気は低く、17頭中16番人気ブービーだった。

ゲートが開くと、1番の再内枠を引いたカツトップエースは簡単にハナを奪って逃げた。有力馬は後方待機で、カツトップエースが作り出した1000m62.1というスローペースの中牽制し合う。直線を向き始めてもカツトップエースの逃げ足は衰えなかったが、ロングミラーがゴール前に猛烈な追い上げを見せクビ差の1着。2着のロングミラーも11番人気と人気薄ということで、上位2頭が2桁人気という大波乱の皐月賞となった(3着は2番人気のステイード)。

菊池厩舎は開業31年目にして初のクラシック制覇となった。ちなみにこの皐月賞、2023年現在勝ち馬の馬体重のトップ3だったりする(516kg)。


次走はNHK杯。サンエイソロンに敗れたものの2着に粘り、皐月賞が紛れではないことを証明した。

そして第48回東京優駿日本ダービー。晴・良馬場の府中にて行われた。

1番人気は前走で勝つトップエースを下したサンエイソロン。カツトップエースはまたも、皐月賞で下したロングミラーの下の3番人気と舐められていた。カツトップエースの父・イエローゴッド産駒の皐月賞桜花賞ファンタスト・ブロケードダービーオークス2桁着順と惨敗しており、2400mという距離は長いと思われていた。陣営もその点は自信を持てていなかったのだが、大崎騎手は「母系はステイヤーよりだし折り合いもつく。直線でばったり止まる心配はない」、と強気の発言をした。


ダービー

皐月賞と同じく、1枠1番のカツトップエースはスタートして1コーナーをキタノコマヨシアドリアアモンスズフタバファンドリペンダスが専攻争いする後方につけた。大崎騎手は2コーナーで2番手に位置を上げて追い出すタイミングを待つ。4コーナーで前を行くキタノコマヨシの逃げが鈍ると、他馬が外に膨れ出した。大崎騎手は好きをつき、カツトップエースをラチ沿いに導いた。ここまで最短距離を走ったとはいえ、府中の直線は長く、始めた走る2400mにバテかけたところにサンエイソロンが馬体を合わせてくる。サンエイソロンの猛追には厳しいものがあったが、しかしカツトップエースは大崎騎手のムチに答え力を振り絞って馬体を合わせてゴールに入る。長い写真判定の結果は、カツトップエースの勝利を指していた。20cmハナ差で振り切っていた。1975年のカブラヤオーから、6年ぶりに春の2冠馬が誕生した。

そしてこの結果を受けて大崎騎手は2度目のダービー制覇となり、この時点でダービーを2勝した騎手は大崎騎手だけだった。


カツトップエースはダービーの激闘を終え北海道に戻り休養し、シンザン以来の三冠馬を目指すも、帰厩後に発症した屈腱炎が悪化、菊花賞を断念する。その後も天皇賞を目指し温泉治療や放牧で回復を試みるも競走に耐えられる状態にまではならず、1982年8月に引退を決定


引退後

総額1億5000万のシンジケートが組まれ、西幌別の東部種馬センターで種牡馬入り。初年度は33頭の種付けを行うも産駒成績は芳しくなく、翌年の39頭を最高に種付け頭数は激減していきシンジケートは解散してしまった。1990年8月中央競馬会に功労馬として買い上げられた。13歳とまだ若かったことから去勢を免れ日高育成牧場・ハッタリ分場にて種牡馬になる機会を待つ。その後ラッキールーラプレストウコウと共に韓国に種牡馬として寄贈。翌年春に済州島にて種付けを行ったが、その後股関節炎が悪化し1991年10月16日にこの世を去った*。結局、日本でも韓国でも種牡馬として成功することはなく終わった。


余談

本馬の故郷・様似町は、サンエイソロンの故郷でもあった。人口約8000人ほどの町民は、ダービーの出走時刻になるとテレビ観戦のため家の外に人の気配が消えたという。そしてそのダービーは、様似町出身の2頭が、並んでゴール板を駆け抜けた。



彼の死から7年後、同じ道を辿った馬が現れる。

彼の名は、サニーブライアン



関連タグ

競馬 競走馬 82世代

サンエイソロン …NHK杯とダービーでワンツー。 テンモン …朝日杯で負けた牝馬

ミナガワマンナ …同年の菊花賞馬

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