概要
宋(北宋)末期の皇帝(1082年-1135年)。芸術に没頭し、絵画や書に天才的才能を発揮した「風流天子」であったが、悪政に次ぐ悪政で宋を亡国に導いてしまった稀代の暗君としても知られる。
経歴
諱は佶。1100年、兄の哲宗が崩御した際、息子がいなかったため、佶が徽宗として皇帝になった。重臣たちは佶の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子を皇帝に推したが、皇太后の意向により彼が皇帝に決まったとされている。
治世当初は、芸術への情熱を抑えて当時の官僚同士の政争(新法・旧法の争い)を何とかしようとしたが、うまくいかなかった。
そのうちに新法派の蔡京を趣味が合うという理由で重用するようになり、徽宗は政務への情熱を失っていく。蔡京は反対する官僚は旧法派・新法派を問わず政界から追い出して、徽宗の機嫌を取るために重税を民衆から搾り取った。とはいっても徽宗も蔡京の暴走を快くは思っておらず、左遷や閑職に追いやるなどして、次第に権力をそいでいった。しかし、蔡京以外の徽宗の側近も、似たような傾向のろくでもない人物が多く、その悪政ぶりは未来に「水滸伝」の元ネタにされている。高俅もそれらの側近の一員だが、その中でもまだ小粒だというのが現実の恐ろしさ(高俅は徽宗が帝位を失った後に弾劾された蔡京や童貫を始めとした奸臣達、通称【六賊】には含まれていない)。
軍事費の着服なんてとんでもない真似をやった高俅が、悪党としては小物という事こそが、この時代のズンドコぶりを象徴しているとも言える。
ついでに、この時代最大の奸臣である蔡京は、書道においては宋代の4大書家に数えられる事も有り、詩や絵や美術品の鑑定においても一流で、官僚・政治家としては極めて有能であった。ただし、政治家・官僚としての有能さは「能力・手腕は凄いが、何の理想・思想もない」「“政治屋”としては超一流。“政治家”としては問題外」という国を滅ぼしかねないタイプの有能さではあったが。
そんな末期的な状況の宋だったが、北方の強敵だった遼はそこにつけ込むどころではないほど弱体化していた。そこで徽宗はいらん欲を出し、遼の北東の金と手を組んで遼を滅ぼそうという野心を抱く。しかし宋の弱体な軍隊は、滅亡寸前の遼の軍隊にすらぼろ負けする始末で、やっと手に入れた遼の旧領は金の軍隊が略奪した後だった。そんな状態でなぜそんな事を考えるのか、もはや理解の範疇外だが、徽宗は金が支配下に置いた地域まで欲を出し、遼の生き残りとともに金を攻撃しようとする。
そして金の軍隊が攻め寄せると息子の桓(欽宗)に譲位して、側近達を連れて開封から逃げ出す。
あまりの醜態に頭に来たであろう欽宗は徽宗を連れ戻し、側近達を処刑した。1126年、金の軍隊が開封を陥落させた際に徽宗と欽宗は捕まり(靖康の変)、金の領内のはるか北方に幽閉され、そのまま一生を終えた。享年54。
なお、この時、徽宗は金により「昏徳公」に封じられている。要は敵国によって処刑される代りに「暗愚な君主」を意味する称号を授けられるという羞恥プレイを受けた訳である。
後宮の100人を超える妻妾、30人を超える息子、30人を超える娘の殆どもともに捕まり、妻妾と娘達のほとんどは鬼畜系エロゲさながらの末路をたどったという。
子孫は金の領内で軟禁されていたが、徽宗と欽宗の死後、海陵王により男性は皆殺しにされたという。南宋を再興した高宗(欽宗の弟)も息子が早世したため遠縁の親族を養子にして、徽宗の男系末裔は断絶している。
「宋史」の編纂に関わったトクトによる評価は、「何でもできたが、君主だけはできなかった」という的確なものであった。
より詳しくは、Wikipedia「徽宗」やWikipedia中国語版「宋徽宗」などへ。
関連タグ
横山水滸伝:史実の徽宗は趣味に没頭し忠臣の諫言を退け佞臣の言うことばかり聞く暗君だったが、この漫画では悪大臣を叱りつける正義感を持つ名君扱い。どうしてこうなった。
非関連タグ
後白河天皇…芸術才能があり(ただし俗っぽい方面で)、予期せずに君主になったが、天然系の世渡りで一生を無事に過ごした。
足利義政…芸術への関心が強かったが、権力が弱い事が幸いし(?)、悲惨な目に遭わずに済んだ。兄が早死にした後に当主になったのは同じだが、その時点ではまだ子供であった。
リチャード1世…政治無能だが創作(水滸伝と同じくアウトローを描くロビンフッドやアイバンホー)で善玉になっている点で共通。ただし、彼は武辺者。