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明応の政変の編集履歴

2023/12/04 23:45:22 版

編集者:つヴぁい

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明応の政変

めいおうのせいへん

明応の政変とは、日本の政変の一つ。室町後期に発生した幕府将軍の擁廃立事件であり、昨今ではこの事件をもって「戦国時代の幕開け」と位置付ける向きもある。

概要

15世紀末、室町後期の畿内(山城・河内)にて発生した、室町幕府将軍の擁廃立事件。細川政元伊勢貞宗ら幕府重臣、それに先々代将軍の御台所であった日野富子らの一派が決起し、時の幕府将軍・足利義材を追放。その後釜として足利義遐(義澄)を将軍に擁立したものである。

一般的には細川政元が、幕府の実権を我がものとすべく将軍の挿げ替えを断行した事件、という文脈で語られることが多いが、これは結果からの逆算に過ぎず、実際にはそこまで単純な話ではない。これ以前に発生した応仁・文明の乱のように、当事者各人の思惑や利害が複雑に絡んだ上で、幕府の存立や各々の生き残りを期して挙兵に及んだと見るのが妥当であろう。

この政変の結果、応仁・文明の乱を経ながらも足利義尚、そして義材によって回復しつつあった将軍権力は著しく失墜し、以降の幕府が政元を始めとする細川氏や、伊勢貞陸(貞宗の嫡子)ら幕府官僚の権力によって支えられるという状態へと、明確に移行するきっかけとなった。

同時に将軍家において、将軍職を追われた義材(義稙)と、新たに将軍の座に就いた義遐(義澄)の2つの系統が分立する格好となり、以降もこの2つの系統の間で将軍職を巡る争いが、実に半世紀以上に亘って継続されていくこととなる。

明応の政変は単に幕府内部や畿内だけに留まらず、地方にもその影響が波及する格好となり、とりわけ東国における戦乱と下剋上の動きを恒常化させる契機ともなった。同時期に堀越公方を討滅して伊豆を手中に収めた伊勢宗瑞や、その甥で駿河守護の今川氏親の台頭もまた、この政変に関連した動きの一例とも言える。

こうした地方における政変の影響の波及から、近年では従来戦国時代の始期とされてきた応仁・文明の乱ではなく、この政変こそが戦国時代の幕開けであるとする見解も、徐々に広まりつつある。

政変の背景

10代将軍・足利義材

長享3年(1489年)3月、近江の六角行高(高頼)討伐のため親征中であった室町幕府第9代将軍・足利義尚が病のために陣没した。義尚逝去の時点で嫡子となるべき実子はなく、幕府内部では速やかに次期将軍を擁立する必要に迫られることとなる。

その結果次期将軍として擁立されたのが、義尚の従兄弟に当たる足利義材(義稙)である。この義材の擁立には、大御台所であった日野富子や、幕府の重鎮であった畠山政長らの後援もあったと見られ、翌延徳2年(1490年)、政務を代行していた足利義政も逝去するに至ってようやく、義材の第10代将軍への就任が確定を見た。

が、幕府の有力者の中には義材の将軍就任に不服を唱える者も勿論いた。その代表格として挙げられるのが、細川政元と伊勢貞宗の2人である。政元は義材の将軍就任に当たっての判始のため、管領を務めながらもわずか1日で職を辞し、貞宗もまた家督と政所執事の職を嫡男の貞陸に譲って隠居に及ぶなど、幕府と距離を置き始めるかのような動きに出ている。

というのもかつての応仁・文明の乱の折、義材の父である足利義視(義政の弟)は西軍の盟主として、細川勝元(政元の父)ら東軍と相対する立場にあり、また貞宗の父である伊勢貞親はそれ以前、文正の政変において義視に叛意ありと讒言に及ぶなど深刻な対立関係にあったという経緯もあった。

その義視の子である義材が将軍に就任するということは即ち、かつて義視と敵対する側にあった者たちにしてみれば、彼の胸三寸でその立場を揺るがされるのではないか、という懸念を抱かせるには十分過ぎるものがあったのである。

そして困ったことに、当初義材を後援する立場にあった日野富子もまた、小川御所(義尚の旧邸)の処遇を巡って義視と対立関係に転じており、さらにその義視もそれからわずか1年足らず後の延徳3年(1491年)に病没するなど、有力な後ろ盾を失い一方では敵が増えていくばかりの義材は、将軍就任当初より逆風にさらされる格好となった。

政元の「政権構想」

政元についてはこの他にも、将軍後継問題において義材と相争う立場にもあった。

というのも、義尚亡き後の将軍後継としては義材の他に、彼の従兄弟に当たる香厳院清晃(堀越公方・足利政知の次男)も、政元によって候補に挙げられていた。未だ幼少、かつ僧籍に入っていた清晃が将軍候補として擁立された背景には、彼の生母の実家である九条家から、政元も養子(細川澄之、九条政基の息子)を迎えていたという事も関わっている。

仮に清晃が次期将軍になった場合、ゆくゆくは政元の後継者として管領職を務めることになるであろう澄之、そして当時堀越公方(鎌倉公方)の後継者と定められていた清晃の実弟・潤童子と、幕府の枢要な職に就く人物がいとこ同士、そして細川氏の縁者が占める格好となり、この三者による政権の樹立を政元は目指していたのではないかと見る向きもある。

ただ一方で、この政権構想については政元よりもむしろ、清晃や潤童子の父である堀越公方・足利政知の意向も強く絡んでいたのではないかとも考えられている。

というのもこの政知、足利成氏(古河公方)に代わる鎌倉公方として下向しながらも、伊豆堀越に留め置かれたまま30年余りが過ぎる中で、幕府と対立する立場にあった成氏がいつの間にやらこれと和睦するに至り(都鄙合体)、その立場は完全に宙に浮いた状態となっていた。ゆえに政知は幕府の方針を転換させるべく、政元と結託して自らの息子たちを次期将軍、そして堀越公方とすることで、幕府の意向として成氏討伐を再開させる狙いがあったとされる。

この政権構想は、義材が将軍に就任した後もなお実現に向けての動きがあったとされ、後述の六角討伐で中断となった政元の東国下向もこれに関連したものであったとされるが、構想の一端を担っていたと見られる政知の病没と、それに伴う足利茶々丸(政知の長男)の堀越公方職簒奪により、事実上この政権構想は頓挫したものと考えられている。

ちなみに前述した日野富子と、義視の対立の火種となった小川御所を巡る一件についても、やはりこの政権構想と微妙に関連したものと言える。富子が清晃に小川御所を譲渡する意向を示したのは、将軍後継から外された清晃への配慮、あるいは義視・義材父子への牽制の意もあったと見られるが、ともあれこのことに義視は憤慨し、小川御所を破却の上富子の所領を差し押さえるに至ったのである。

将軍権威回復の動き

ここで話を戻すと、前述した幕府有力者たちとの対立や、後ろ盾の喪失などによる閉塞的な事態の打開を、義材や畠山政長は反抗的な大名の討伐による将軍権威の高揚と、軍事力の強化に求めた。これは前将軍・義尚の路線を引き継ぐものでもあり、義視が亡くなって間もない延徳3年春には、義尚の陣没で頓挫していた近江六角氏の討伐を再開、多くの大名も参集したこの六角討伐は敵方を近江から甲賀、さらには伊勢へと追いやるなど一応の成功を見るに至った。

が、この2度目の六角討伐もまた、義材と細川政元との関係にさらなる隙間風を吹かせる結果となった。元々政元は再度の六角討伐には反対の立場であった上、代理として参陣させていた家臣の安富元家が六角軍の奇襲により敗北を喫したこともあり、義材は政元や細川京兆家を頼るに足る存在でないとして、次第に冷遇するようになっていったと見られる。

その現れとも言えるのが、阿波細川氏の当主・細川義春の重用である。義春は六角討伐直前の延徳3年6月、義材からの偏諱を受ける形でそれまで名乗っていた之勝から名を改めているのだが、これは阿波細川氏はおろか、本家である細川京兆家の当主ですら前例のないことであり、さらに義材はそれまで住んでいた三条御所から義春の邸宅へと居を移すなど、義材が政元の対抗馬として義春を重んじているであろうことは、誰の目からも明らかであった。

このように政元との関係はさらに悪化していったものの、六角討伐の成功で目論見通り将軍権威を回復しつつあった義材は、次の討伐目標を河内の畠山基家(畠山義就の子)と定め、明応2年(1493年)に入ると河内討伐のための大号令を発し、2月に軍勢を進発させた。この河内討伐については、かねてから分裂していた畠山氏の内紛に決着を付けるべく、その当事者の一方でもあった畠山政長が親征を要請したことによるものでもあった。

畠山の内紛収束とそれに伴う再統一は即ち、同じ管領家である細川氏にしてみれば(その勢力圏が近いこともあって)百害あって一利なしな話でしかなく、ここでも政元は河内征伐に反対の意を示しているが、これが義材に無視されたのは言うまでもあるまい。政変の後には「半将軍」とまで称された政元であるが、この時点では半将軍どころかむしろ一歩間違えれば、それまで築いてきた幕府内での立場を失いかねない状況にまで追い込まれていたのである。

反義材勢力の結集

義材政権下において自らの立場が揺らぐ一方の政元は、何としても河内討伐とそれに伴う畠山氏の再統一を阻止・頓挫させる必要に迫られた。

そのための動きは、既に水面下で進められていた。河内討伐に先んじて基家の家臣と政元、それに伊勢貞宗との間で接触があったことが、同時代の史料において記されており、この頃には政元・貞宗・基家の間で政変に向けて結託していたものと考えられている。

貞宗はこの他にも、義材に代わる新将軍の擁立に向けた事前工作も積極的に進めていたと見られ、後述の理由から政変実行の上で主導的立場にあったのはむしろ貞宗の方ではないか、と見る向きもある。

こうした根回しはこの三者間だけでなく、他の大名に対しても行われた。播磨の赤松政則とはこれ以前より、山名氏との抗争に際して政治的連携を深めていた間柄であったが、それに加えて政元は自身の姉である洞松院(めし)を娶らせることで、自陣営への引き込みを図っている。この当時、赤松氏の重臣の一人であった浦上則宗は六角討伐を通して義材に接近を図っており、前述の婚姻は則宗と対立する立場にあった別所則治(別所長治の高祖父)ら親細川派の重臣によって進められたとされる。

また、河内討伐に参陣するため堺に入っていた大内義興に対しては、既に自陣営にあった武田元信(若狭武田氏当主)に義興の妹を拉致させるという強引な手段を取り、義材への助勢を阻んでいる。前出の赤松政則とは逆に、元々大内氏と細川京兆家は応仁・文明の乱以前より対立関係にあり、加えてこの時義興が率いていた軍勢は1万前後もの大軍であったことから、仮に大内軍が義材の側についた場合、政変が頓挫のうちに終わった可能性は高いと考えられている。

そして反義材陣営には、既に義材との関係が悪化して久しい日野富子も加わっていた。富子は積極的な親征を進める義材の姿勢が、参集を余儀なくされる大名たちに不満を抱かせ、それがゆくゆくは幕府の存立に深刻な危機をもたらす恐れがあると懸念を抱いており、実際に2度に亘る大規模な親征において大名たちは、莫大な戦費や兵糧の負担を強いられる格好となっていた。

仮にこのまま、前述した義材の姿勢が改まらなければさらなる親征が打ち続く可能性も否定はできず(実際、後述の通り河内討伐に続いて越前朝倉氏の討伐も検討されていたとされる)、大御台所として幕府を支えてきた富子にとっては、これに歯止めをかけねばとの思いを抱いたものと見られる。

こうして、政元らを中心とした反義材陣営が結集・活発化していく中、政変のXデーはいよいよ迫りつつあったのである・・・。

政変の経過

決起

明応2年2月より始まった河内討伐は、早くも1月足らず後の3月の段階で本拠の高屋城に籠もる畠山基家を孤立に追い込み、幕府軍の勝利は最早時間の問題かに思われた。しかしその覆りようのない状況を覆す事態が突如として発生する。4月22日の晩、京都にて細川政元が遂に決起に及んだのである。

政元率いる軍勢は、その晩から翌日にかけて義材の関係者の邸宅や、兄弟らが入っていた寺院をことごとく襲撃・破壊に及び、さらに先んじて自らの手元に置いていた香厳院清晃を新将軍に擁立することを公表。28日に清晃は還俗し、名を足利義遐(よしとお)へと改めている。

同時代の記録によれば、前述の義材関係者周りの襲撃、それに京都の制圧は大御台所の立場から、富子が直接指揮を執った上で政元が実行に移したものであったという。

義材の抵抗と降伏

この報せは、河内正覚寺に在陣していた幕府軍にも程なく伝わり、義材は言うに及ばず参陣した諸大名、それに奉行衆・奉公衆ら直臣らに深刻な動揺をもたらした。

程なく伊勢貞宗より、新将軍に従うべしとの「謀書」が諸大名や直臣らに送付されるに至り、その殆どが河内を引き上げ京都の義遐の下に参集してしまうなど、義材の求心力が殊の外高いものでなかったことを露呈する格好となった。

とはいえ、義材の元には畠山政長率いる8,000の軍勢が依然として残っており、あくまでも徹底抗戦の構えを示していた。加えて政長の領国である紀伊には、根来衆などからなる数千から1万規模の大軍も残されており、この紀州からの軍勢が正覚寺の義材らに合流すれば、政元らの政変を頓挫させることも決して不可能ではなかったのである。この紀州勢の到着を頼みの綱とし、義材らは正覚寺に籠もってその後も一月に亘り、4万にも及ぶ細川軍に対し頑強な抵抗を続けた。

しかし、閏4月中旬に紀伊を進発した軍勢は、堺に駐留していた赤松政則の軍勢にその行く手を阻まれ、両者の間で繰り広げられた戦闘の末に紀州勢が敗北するという結果に終わった。これにより、義材らが自力で細川軍を打ち破る術は失われ、閏4月24日の総攻撃により正覚寺は陥落。政長は家臣らとともに自害して果て、嫡子の尚順も城から落ち延びることを余儀なくされた。そして細川軍に投降した義材は、その身柄を京都に送られた後、上原元秀(政元の家臣)の屋敷にて幽閉されるに至った。

京都における義材派の粛清はその間なおも続き、29日には側近の一人であった葉室光忠も殺害の憂き目に遭っている。公家として活動する傍ら、義視・義材父子の側近として重用されてきた光忠は、義材政権下においては義材からの奏請によって権大納言にまで上り詰め、将軍への申次役として摂家や管領さえも凌ぐ権勢を有しており、政元にとってはこの政変に際して排除すべき人物の一人でもあった。

その後の幕府

武力による将軍の存廃立という、室町幕府始まって以来前代未聞の事態が発生したこの一件は、最終的に新たに将軍となった足利義澄を傀儡とし、政変の中心人物であった細川政元が幕政を掌握した・・・と一般には見られることが多いが、実情としては必ずしもそうであるとは言い難い。

確かに、この政変で将軍直属の軍事勢力たる「奉公衆」が事実上崩壊・形骸化したことで、将軍権力やその保持する軍事力を細川氏に頼らねばならなくなったところはある一方、前出の伊勢貞宗が政変の後に将軍の後見役を務めており、如何に政元であっても幕府内で隠然たる影響力を有し、政変の立役者の一人でもある貞宗に対しては、その意向を無視できないものがあった。

貞宗だけでなく、その嫡子で政所頭人の職にあった伊勢貞陸もまた、政元の行動を掣肘する存在の一人であった。その代表的な一例として挙げられるのが、山城国一揆の瓦解を巡る両者の駆け引きである。文明年間の末期に山城国にて成立した、有力国人たちによるこの一揆を当初幕府は事実上静観する構えを見せており、政元も国人たちの中に細川家と被官関係を結ぶ者がいたことから、やはり同様の姿勢を示していた。

この状況は、文明18年(1486年)に貞陸が山城守護に補任された後もなお変わらずにいたが、明応の政変の勃発によってそれも一変することとなる。それまで名目上の山城守護であった貞陸は、政変に伴い義材派への対抗を名目として、山城全域の掌握を目指すようになり、一揆を構成する国人たちもまた、伊勢氏に従い自らの地位を保全しようとする者と、細川氏との関係を背景にこれに対抗しようとする者とで分裂、遂には一揆の瓦解という事態にまで発展してしまう。

伊勢氏による支配に反発する国人衆はなおも抵抗を続けるも、彼らが当てにしていた政元からの支援を受けられぬまま、伊勢氏の支援を受けていた大和の古市澄胤の軍勢により鎮圧されている。政元としてはなおも義材派との抗争が打ち続く中で、味方である貞陸やその父の貞宗を敵に回すことは得策とは言い難かったのである。

さらに京兆家中においても、政変からわずか半年余り後の明応2年11月に、政変を主導する立場にあった上原元秀が急死したことで、家中では政変に対して消極的な考えが大勢を占めるようになり、後述する義材の北陸への下向という情勢の変化も相まって、幕府と細川京兆家は必然的に協調関係に入っていかざるを得なくなったという見方も示されている。

「半将軍」とまで謳われ、将軍さえも傀儡とした専制者と見られることの多い政元であるが、その実態としては幕府内では協力関係にあった幕臣や、成長に伴って親政を志向するようになった将軍・義澄の意向を無視できず、また外においては前将軍・義材を始め後述の敵対勢力との抗争に頭を悩まされるという、政変前とはまた別の意味で難しい立場にあったと言えよう。

越中公方の成立と義材派の反攻

その一方、政変で将軍の座を追われる形となった義材も、このまま粛々と幽閉の身の上に甘んじるつもりはなかった。

投降の後、義材は前出の上原元秀邸からさらに龍安寺へと身柄を移されていたが、やがて小豆島へと三度身柄が移されるとの噂が立つや、側近らの手引きもあって京を脱出、北陸へと下向するに至った。時に明応2年6月末、将軍廃立から2ヶ月あまり後のことである。

北陸へ向かった義材は、越中の射水郡放生津(現・富山県射水市)へと落ち延び、ここに亡命政権を打ち立てることとなる。放生津には、正覚寺にて無念の自害を遂げた畠山政長の腹心にして、越中守護代でもあった神保長誠が本拠を置いており、義材は長誠の後援の元で当地の正光寺を御所とし、下向に付き従った自派の幕臣や公家衆、禅僧らを中心に政治体制を確立、各地の大名に対して政元討伐の檄を発したのである。

亡命政権とはいえ、「越中公方」とも称されるこの義材の政権はそれなりの陣容と勢力を備えたものでもあり、さらに前述した討伐の檄に応えて能登畠山氏や越前朝倉氏、越後上杉氏といった周辺の有力大名、さらには遠く九州の大友氏も忠誠・協力の意を示し、将軍・義澄を擁する京の幕府にとっては無視できない脅威となった。政元もこの状況をただ座視していた訳ではなく、直ちに越中へと軍を派遣するも越中勢の抵抗の前に大敗を喫し、却って越中やその周辺における幕府の影響力の排除という結果に繋がってしまった。

この越中公方はその後、義材が越中から越前へと動座したことでその役割を終えるも、その後もなお自身に味方する諸勢力と連携し、京への帰還と将軍復帰を狙い続けることとなる。

一方、正覚寺陥落の折に紀伊に逃れていた畠山尚順は、なおも追撃に及ぶ畠山義豊(基家)の侵攻を退けつつ雌伏の時を窺っていたが、やがて義豊の家臣の間で内紛が起こるとそれを好機と捉え、政変から4年後の明応6年(1497年)に挙兵。

河内の高屋城を落として義豊を山城へと追放せしめ、さらに大和でも尚順の挙兵に呼応して筒井氏や十市氏が、古市氏や越智氏といった義豊派国人を没落に追い込むなど、瞬く間に尚順の勢力は河内・大和全域を席巻した。

尚順と義豊の抗争はその後も1年半近くに亘って継続されるも、明応8年(1499年)1月の河内十七箇所の戦いにて尚順が義豊を討つ形でこれを制し、父の無念を晴らすとともに紀伊から河内にかけての一帯に、細川方に対抗する一大勢力を築く結果となった。

こうした北陸、畿内における義尹(前年の9月に義材より改名)やその与党が連携しての反攻の動きは、一時政元や京の幕府を窮地に追い込むこととなるのだが、同年7月に進軍を開始し、神保氏だけでなく延暦寺や根来寺などの僧兵の協力を得て近江にまで迫った義尹の軍勢は、かつて自身が討伐しようとした六角高頼の前に手痛い敗北を喫し、さらに落ち延びた先の河内でも細川軍に敗れ、遠く周防の大内義興の元へ身を寄せることを余儀なくされた。

この時の義尹の挙兵に呼応し、二方面からの進軍で義尹の軍勢とともに政元を挟撃しようとした尚順も、義尹の没落という事態を前に河内を捨てて自落に及ばざるを得ず、その後の赤沢朝経(澤蔵軒宗益、細川氏被官)による大和国人の追討もあって、政元は一時的にではあるが畿内やその周辺から義尹派の勢力を駆逐、細川氏の版図を広げることにも繋がった。

とはいえ、周防にて大内氏の庇護下に置かれた義尹は言うに及ばず、没落した尚順も引き続き紀伊にて根強い抵抗を続ける有様であり、こうした敵対勢力の蠢動はその後も生涯に亘って、政元や義澄を脅かす格好となったのである。

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