生没年 955(天歴9)年~1020(寛仁4)年
官位 正二位 大納言
摂政・関白・太政大臣を務めた藤原兼家の次男。母は「蜻蛉日記」の作者として有名な藤原道綱母。異母兄に摂政・関白を務めた道隆、異母弟に関白を務めた道兼や摂政・太政大臣を務めた道長などがいるが、庶子の為兄弟たちのような出世は出来なかった。
経歴
前述のように庶子である為、6歳下の道兼が986(寛和2)年に、11歳下の道長が987(永延元)年9月に公卿となったのに対し、道綱は道長と同じ年の11月に公卿となるなど既に差が出ていた。
995(長徳元)年に道隆と道兼が相次いで亡くなり、道長が実質的な頂点に君臨した後は、997(長徳3)年に大納言に、1001(長保3)年に正二位にすすみ大納言の筆頭となるが、そのあとは左大臣の道長、右大臣で藤原顕光(従兄弟、伯父兼通の子)、内大臣の藤原公季(叔父、兼家の弟)による体制が15年続いたことで出世も頭打ちになってしまった。
1020年に病気のため出家し同年亡くなった。
人物
学識者として知られた藤原実資は「一文不通(何も知らないやつ)」「漢字も自身の名前しか読めない」と記しており、政治的・文学的才覚に乏しかったことがうかがえる。
三男の兼経は道長の養子となり若くして累進したものの病がちになり44歳の若さで亡くなった。
道綱の子孫はその後奮わなかったが兼経の曾孫の季行は鳥羽上皇や後白河天皇の信任を受け道綱流では兼経以来となる公卿に列せられた。次男の定能の系統は二条を号したが子孫の事績は鎌倉時代後期の二条資高・資藤兄弟を最後に不明になっている。
一方で季行の娘である兼子が九条兼実に嫁ぎ長男良通と次男良経を産んだ為、女系では現在でも存続している。