概要
大正昭和の落語家。最後まで貧乏長屋に住まい続けた、林家木久扇曰く「江戸の名残を残す老人」。
短気で曲がった事を嫌う理屈っぽい性格をしていたため、トンガリの正蔵とも呼ばれた。
話芸ではなく本人そのものの方が落語として残っているという稀有な人。当時の落語家の中でも屈指のキャラの濃さをしており、存命中の彼を知る者からは没後もネタにされ続けている。噺家の与太話だろうと思っていると別の噺家がその説を裏付ける別の話を持ってくる始末。
最近の人だと「たまに笑点で木久扇がやっている『ごくろうさまぁ~』というおじいさんの芸の元ネタの人」という形で知っている人も多いだろう。
経歴
本名:岡本 義
生没:1895年(明治28年)5月16日~1982年(昭和57年)1月29日
1912年、2代目三遊亭三福(後の3代目三遊亭圓遊)に入門し三遊亭福よしを名乗る。
1914年、師匠の扇遊亭金三への改名に伴い扇遊亭金八と改名。
1917年、師匠が4代目橘家圓蔵に弟子入りしたのに伴い、自分も圓蔵の弟子となる。
1918年、二つ目昇進し橘家二三蔵に改名。
1919年、3代目三遊亭圓楽を襲名。
1920年、真打昇進。
1922年、3代目柳家小さん一門に移籍。
1927年、4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)一門に移籍。
1928年、5代目馬楽を襲名。
1950年、狙っていた5代目柳家小さんの名を弟弟子の9代目柳家小三治に取られたため、空き名跡だった林家正蔵を8代目として襲名。この名は7代目正蔵の実子である初代林家三平が襲名するはずだったが、時期尚早として見送っていた経緯があった。
1980年、自分の死後に9代目正蔵を名乗る予定だった三平が先に死去したため、正蔵を三平の実家の海老名家へ返上し(2005年に三平の長男の林家こぶ平が9代目を襲名)、好きな映画から名前を取って彦六に改名。
1982年、86歳で死去。
弟子
※ちなみに『笑点』に2023年現在、林家木久扇(初代林家木久蔵)、三遊亭好楽(林家九蔵)、春風亭一之輔(5代目柳朝の孫弟子)と彦六の流れを汲むレギュラー出演者が3人もいる。
エピソード
- 三遊亭圓生とは天敵関係。昔から性格的にそりが合わなかったことに加え、ある事件をきっかけに完全な対立関係になった(しかもそのきっかけが著書ごとに異なる)。特に圓生は日記に「(芸を聞くと)耳が腐る」とまで書き残すほどであり、少なくとも「碁敵は憎さもにくしなつかしさ」というようなほっこりするものではなかったようである。
- ただし彦六本人は、あくまで『圓生とそりが合わない』と自覚していたようであり、たとえば彼の弟子で自分以上に短気な全生(後の5代目圓楽)を気に入り、全生に圓楽の名前を譲った他、圓生の葬式に出席した際に「いいかい、心配しなくたってちゃんと戻れる(圓楽以外の弟子は師匠の巻き添えになる形で落語協会から脱退したのを見抜いていた)ようにしてあげるから」と弟子たちに言って励ましたりと、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」みたいなことはしなかったようである。落語協会を離脱した圓生のことを陰ながら心配していたというエピソードもいくつか残っている。
- 上記の通り短気で弟子にも失敗すればすぐ破門を口にした。だがちゃんと謝れば許してくれたり、翌日にはケロリとしていたり、誰の顔に免じてなど何かと理由をつけて許してくれた。一例として、現在円楽一門会所属の三遊亭好楽は彦六門下時代に23回破門、林家木久扇は37回くらいされていると自称している。
- ものすごく短気でせっかちだったが、その中でも啖呵を切ることを忘れなかった。たとえば朝日新聞の「落語の名人は数人数えると、この先は指が折れない」という記事に対して「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と律義に手紙を出した上で即日解約したり、雪道で二度滑って転んだ時に「二度も転ぶならさっき起きなきゃよかった」とぼやいたり、冬場に楽屋で温かい日なたを譲られると「俺は洗濯ものじゃねぇやい」と返したり、といった具合。本人の激しい気性と噺家気質のせいで面白い話は枚挙に暇がない。
- 好楽の彦六門下時代の名は「林家九蔵」。若くして亡くなったした彦六の実の息子と本名が同じなこともあって大層可愛がられた。
- 8代目正蔵時代、高座名を一代限りという約束で初代三平から借りていたという義理から、弟子が真打に昇進した際には亭号を「林家」以外のものに変えさせるという方針を取っていた(例外的に、初代三平に可愛がられていた初代林家木久蔵(現在の林家木久扇)は真打昇進後も林家の亭号を名乗っている)。この方針は彦六改名時に撤廃した模様。
- 長屋住まいの江戸っ子気質からは意外だが、オフの日には英国調の洋服を着こなし、来客が来ればコーシーを振る舞い、巡業の昼食は必ずカレーライス、朝食はいつもジャムを塗ったトーストとコーヒーという現代的な一面を持っていた。そもそも学があることから「インテリ」と呼ばれており、噺家が勉強できるのなんておかしいという価値観の時代ではそれが理由で陰口を叩かれたこともあるという割と浮いた存在だった。
- 正月・誕生日・怪談祭りの時には大量の牛すじを調達し、長時間煮込んで醤油と日本酒で味付けしたものを振る舞っていた。特に正月に振る舞われる牛すじ煮込みはおせちやお雑煮に飽き気味の若手落語家から大評判だったという。
- 同世代を生きた噺家には非常に存在感が大きい人だった。三遊亭圓歌は「あんなやりにくいジジイはいなかった」と言いながら、圓生との不仲や正蔵の返上などを落語のネタにしている。たとえば『落語協会の分裂騒動の真実は、会議の場で「ここから出ていきます」と言った圓生に彦六が「昔から死ぬ死ぬと言う奴に本当に死んだ奴はいないよ」と煽って引っ込みがつかなくなったせいなのだ』、といった具合。
- 勘が非常に鋭く、たとえば前座時代の九蔵に結婚相手の女性が出来た時「お前、女ができたろ」と見抜き「結婚するのに前座じゃ格好がつくめぇ」と九蔵含めて11人を一気に二つ目へ昇進させたり、立川談志が自殺するのではないかと心配したとき周りは本気にしなかったが当の談志が燃え尽き状態で本当に自殺を真剣に考えていたり。
- 弟子の林家正雀や林家木久扇は彦六の物真似を得意としている。特に木久扇は持ちネタとして彦六の様々な逸話を物真似を交えて演じる新作落語「彦六伝」を度々演じており、震えた声で「馬鹿野郎、早く食わねぇからだ」・「このチョコレートには、種がある」と言うなどのネタは笑点の大喜利などでも時折披露されている。幽霊の物真似をする際にも、前座時代の手伝いの影響がしっかりと残っている。
- 存命中は「短気で頑固で偏屈なジジイ」のいい例であり、こち亀でもたとえとして出されている。没後は彦六に縁のない子供も増えたものの、物真似が「よぼよぼ声の頑固なおじいさん」として別方面から人気を博すようになったという。