越前の戦国大名朝倉家の一門衆。敦賀郡司として兄・朝倉貞景、甥・朝倉孝景(宗淳)、大甥・朝倉義景の三代に渡って仕えた名将。
プロフィール
生没年:1477年〜1555年
諱:教景
号:宗滴
通称:小太郎、太郎左衛門尉、金吾
官位:左衛門尉
渾名:越前の軍神、朝倉の九頭竜
父:朝倉孝景(英林)
兄:朝倉貞景
養子(甥):朝倉景紀(貞景の四男)
養孫(大甥):朝倉景垙、朝倉景恒
概要
朝倉家七代目当主の英林孝景の八男。当初嫡男として遇されていたと言われるが、父・孝景が死去した時まだ4歳だったため、家督は兄貞景が継ぐ。
一門の敦賀郡司・朝倉景豊が謀反を計画しているのを知るとそれを密告。自害させられた景豊の後釜の敦賀郡司に就いて、朝倉家の軍務を取り仕切ることになる。それを契機に家中で頭角を現していく。
この頃、越前の隣国加賀を統治していた一向宗が度々勢力拡大を目指して朝倉領に侵攻してくる。
周辺の越中・能登の門徒と合流してふくれあがった一向宗の軍勢は、越前の九頭竜川一帯で朝倉軍と対峙。宗滴は朝倉軍の総大将を務めることになる。この時一向宗側は30万を超えていたと言われ(もちろん大幅に誇張されているだろうが)、対する朝倉側は1万程度だったと言う。圧倒的に不利な状況の中、宗滴は夜襲を敢行。これが功を奏して一向宗側は潰走する。この九頭竜川の戦いで、越前国内の一向宗の拠点を奪うことに成功した。
そして美濃の守護大名土岐家の家督争いが起きると、それに介入した浅井亮政(長政の祖父)を六角家と共に牽制。浅井家本拠地である小谷城の一角を占拠し、六角家と浅井家の調停を務めた。それ以降、彼が占拠した一角は『金吾嶽』と呼ばれるようになる。
更に将軍と管領の要請で上洛。京周辺に勢力を伸ばしていた阿波の三好氏との緒戦で、見事勝利を収めている。これらの活躍により、下克上による台頭で不安定だった朝倉家はその地位を盤石にした。
1531年、一向宗の内紛が起きると能登の畠山家と共に加賀に出陣。しかし畠山側が壊滅したため、撤退を余儀なくされている。そして1555年、越後守護上杉家と再度加賀に出陣。途中まで順調だったが陣中で病に倒れ、帰還した一乗谷で死去。享年79歳。
実子は居らず敦賀郡司職は養嗣子にしていた甥の景紀(貞景の四男)が継いだ。しかし、景紀自身もすでに50歳を過ぎていたため、わずか3年後の1558年に隠居し長男の景垙が敦賀郡司職を継ぐ。しかし景垙は1564年9月、加賀攻めの陣中で大野郡司朝倉景鏡との口論が原因で自害してしまう。景垙の跡を継いだ弟の景恒も1570年の織田信長・徳川家康との戦いで居城の金ヶ崎城を開城したために、家中からの吊し上げに遭い憂悶の内に病死した。このため敦賀郡司家は完全に没落し景紀もこの2年後に病死した。
ちなみに臨済宗の僧侶で千利休と親しく信長や豊臣秀長の葬儀の導師を務めた蒲庵古渓は宗滴の子とも言われている。
朝倉宗滴話記
宗滴の来歴や教訓などが、家臣の萩原宗俊によってまとめられた。後にこれは編集され、『朝倉宗滴話記』として完成している。成立年は不明だが宗滴の死後と思われる。
「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」の一文が有名。
他にも国を治める手本として今川義元・三好長慶・武田信玄・毛利元就・長尾景虎・正木時茂(大膳亮、里見義堯の家臣)、そして織田信長を挙げている。
当時まだうつけと評判だった信長の台頭を予期しており、臨終の際に『後三年生きてその行く末を見てみたい』と語ったと伝わる。
しかし、信長により敦賀郡司家の没落ひいては朝倉宗家の滅亡を招くことになる。
信長の野望
朝倉家家臣として登場。いまいちパッとしない同家家臣団のなかでは、全てにおいて標準以上の極めて高い能力を誇る。初登場時の武将風雲録には「『あの』朝倉にこんな名将が!」と驚いた者も少なくない。同時に既に高齢でゲーム開始早々1カ月と持たずに死ぬことが多く(シリーズ通して桶狭間の戦い前後のシナリオではお馴染)、序盤の朝倉家は宗滴が死ぬまでにどれだけ勢力を伸ばせるかが最重要課題となる。
似たような境遇の長野業正らと合わせて、ファンの間では高性能じいちゃんと呼ばれている。
戦国大戦
年代設定のせいで登場が危うかったものの、「-1582 日輪、本能寺より出ずる」にていよいよ参戦。
もう死んでるじゃねえかとか言ってはいけない。北条も氏綱出たし。
上のイラストがその戦国大戦のもの。
スペックは騎馬隊・武力10・統率10・特技「魅力・制圧」。無論浅井朝倉家最高スペックである。と言うか信玄とほぼ互角と言う鬼スペック。
計略は「勝つ事が本にて候」。超絶強化であるが、浅井・朝倉が数揃っていないと全力を発揮できない問題もある。
ちなみに「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」は出陣時に聞ける。
Fateシリーズ
詳細は朝倉宗滴(Fate)を参照。