小磯国昭
こいそくにあき
小磯は朝鮮総督時代「朝鮮の虎」と呼ばれたが、当人曰く「歴代総督のうち、ご覧のとおり私が一番の醜男だ。この顔がトラに似ているためではないか」ということである。
小磯の母親は美人で、小磯も中学の初年級頃は美少年だったとかで、当時の同級生には後に「誰かと思ったよ」と言われたという。
中学卒業時、進路を決めるに当たり「強ひて挙げれば幼少の時分から兵隊が好きであつたし、幸に身体も強健軽捷である。学科は特に秀でたものも持たないが、人の間に伍して行く丈の才能は授かつてゐる」という理由で陸軍士官候補生となる。
この自己分析は正確で、小磯は決して優等な成績を修めることも、目立った手柄を立てることもなかったが、かといって大過もなく、要領よくそれなりの成果を収めるという術を持っており、順当に出世していった。
小磯が最も手腕を発揮したのは、軍の編成や動員計画、資源確保の立案や運営といった官僚的事務であった。
先見の明もあり、すでに大正時代に将来は制空権の確保が戦いの第一条件になると考え、空軍を陸海軍から独立させるよう提案したが、その意見は受け容れられなかった。
当時は軍縮時代であり、小磯が連隊長を務めた連隊もそのあおりで廃隊の憂き目に遭っている。
小磯は宇垣一成陸相の下で整備局長をしていたが、そこへ思想家の大川周明が訪ねてきた。
大川は橋下欣五郎陸軍大佐らと共に宇垣を担いでクーデターを起こそうとしており、宇垣への取り次ぎを頼んできたのである。
小磯はいったん計画に乗りかけるが結局は実行阻止に回り、事件は未遂に終わる。
いわゆる「三月事件」である。
だが、満洲事変、五・一五事件経て陸相に「皇道派」の代表格の荒木貞夫が就任して露骨な派閥人事を始めると、「統制派」に近かった小磯は軍中枢部を追われ、関東軍参謀長として満洲に飛ばされた。
そのまま現役を退かされるのは確実と見られていたが、荒木陸相の病気辞任を機に皇道派の勢いが弱まり、広島第五師団長、朝鮮軍司令官となり、大将まで昇進した。
拓務省は朝鮮・台湾など外地管理が仕事で、小磯は東南アジア地域の資源開発構想に取り組んだ。
大東亜戦争開戦翌年には朝鮮総督に就任。
かねてから「内鮮一如」が持論であった小磯は朝鮮人に参政権を与えるよう具申を行った。
しかしその間にも戦局はどんどん悪化していく。
そして小磯は戦争末期、東条英機の後任首相に選ばれて内地に帰還した。
ところが小磯が選ばれたのも、適任者がなく「消去法」で選ばれたような状態で、積極的に小磯を適任と推した者は一人もなく、どう見ても小粒の小磯に不信感を持つ者の方が多かったため、首相は一応小磯だが、海軍大将米内光政との連立というよくわからない変則内閣になった。
小磯はインドネシア独立を承認、戦局打開にも意欲を燃やすが、最後まで指導力は発揮できず、正確な戦況すら知らされなかった。
そこで現役復帰して自ら陸相を兼任しようとしたが、杉山元陸相の反対で阻止された。
また、繆斌を仲介に重慶政権との和平を図ったが、これも重光葵外相の猛反対で中止。
内閣はわずか8ヶ月で総辞職となる。
こんな実情でも戦後はA級戦犯とされ、判決は終身禁固刑であった。
服役中、パール判決書の紙の裏を使って手記を書くが、小磯の記憶力は驚異的で、資料も記録もない獄中で日常の細かいことまで綴り、87万字という膨大なものになった。
小磯はその手記を書き終えた翌年、拘置所内にて食道癌で死去した。