概要
京都の東山高校を経て、1993年のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受けて入団。
1995年に1回だけ登板したが、勝利を挙げられなかった。
1996年に初勝利を飾ると、めきめきと頭角を表すようになり、クローザーもつとめるようになった。
2006年、開幕直前の3月24日に實松一成、古城茂幸との交換トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍。日本ハムで1年間プレーした後、海外FA権を行使し、ボストン・レッドソックスへ移籍。
2012年、春にニューヨーク・ヤンキースとスプリット契約を結び、キャンプに招待されるも、フィジカルチェックで左肩に異常が見つかったため契約が無効となった。同年、福岡ソフトバンクホークスと1年契約を結び、日本でプレー。
2013年は再びアメリカに渡り、オークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、5月にメジャー昇格。5試合に登板した。
2014年はソフトバンクに復帰し、優勝と日本一に貢献したが、オフに契約が合意できず退団。横浜DeNAベイスターズと契約した。しかし戦力になれず、戦力外通告を受けた。
2016年にボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだが、3月末に解雇された。
その後、現役を引退することをブログで発表した。
プレースタイル
ボールを投げる瞬間、前方のキャッチャーから顔を背けて思い切り投球する。前を見ずとも、キャッチャーのミットにきっちりおさまる絶妙なコントロールが武器。星野仙一は、「あんな投げ方でようストライクが入るね」と彼の投球スタイルについて評している。
この独特な投げ方は「ルックバック投法」「あっちむいてホイ投法」などと呼ばれた。
余談
水原一平が一時期彼の通訳をしていたことがある。なお、経歴ではレッドソックス時代に岡島の通訳をしていたとされているが、2024年に水原が不祥事によりドジャースを解雇された際、レッドソックスは「レッドソックスは水原を岡島の通訳として雇用していたことはない」と声明を発表した。
岡島も後日コメントを出し、水原が自身の通訳をしたのは2012年春にヤンキースのキャンプに招待選手として参加した時だけであり、自身の契約と同時に水原の契約も無効となったために一緒に球団で働くことができなかったと説明した(レッドソックス時代には別の人物が通訳を務めていたとのこと)。