生涯
前半生
永禄6年(1563年)、北近江の守護大名であった京極高吉と、正室のマリアの間に嫡男として生まれる。幼名は小法師。弟に京極高知、妹に京極竜子(松の丸殿)他。
京極氏は佐々木道誉に連なる源氏の名門で、室町幕府では山名氏・赤松氏・一色氏と並んで「侍所所司」の職に就くことができる「四職」家のひとつでもあった。しかし16世紀に入ると傘下にあった浅井亮政(長政の祖父)の台頭などで没落の一途を辿り、父・高吉の時代にはその領地のほとんどを失っていた。
父・高吉が織田信長と足利義昭の対立に絡んで出家を余儀なくされた事から、高次は幼少時より信長の下へ人質として送られ、後に義昭の籠る槇島城攻めでの功を認められ近江奥島に5000石を与えられている。
天正10年(1582年)、本能寺の変が発生すると義弟であった若狭の武田元明と共に明智光秀に与し、羽柴秀吉の本拠であった長浜城攻めにも参加している。しかし光秀が山崎の戦いで敗死し、共に光秀に与した元明も自害すると、高次は美濃を経て若狭に逃れ、柴田勝家の庇護を受けていたとされる。
本来であれば死は免れないところであったが、元明の正室であった妹・竜子が秀吉の側室となり、彼女が助命嘆願に及んだ事もあってか、高次は奇跡的に許されて秀吉の家臣として仕える事となる。これ以降、近江高島に5000石(当初は2500石)を与えられ、さらに九州征伐での功績から1万石に加増され大名として復帰。天正15年(1587年)には、浅井氏出身で従兄妹同士でもあった初(浅井三姉妹の次女)を正室に迎えてもいる。初との間に実子は出来なかったが、初の妹・江と徳川秀忠の四女・初姫や、高次の妹の娘・古奈などを養女とした。
その後も文禄4年(1595年)には近江大津6万石に加増移封となり、翌年には従三位参議(宰相)にも任ぜられるなど、その順調な出世ぶりから当時は妹や妻たちの尻の光に拠った、いわば「蛍大名」と揶揄される事もあった。
但しこの評価は必ずしも的を射たものではない。秀吉としては鎌倉以来の名門である京極氏の名望を利用する事で、近江の支配を円滑に進めたいという思惑もあり、高次自身の実力も決してその意向や出世ぶりに見合わぬものではなかった。この事はその後思わぬ形で、世間に広く示される事となるのである。
大津城攻防戦
秀吉薨去後の慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成ら奉行衆の対立が激化し、やがてそれは関ヶ原の戦いに繋がっていく。この時高次は家康・三成の双方から取り込み工作を受けており、当初は大津城の守りに不安を感じ西軍方についていたが、一方で井伊直政を通じてひそかに西軍の動向を伝えるなど、東軍への内通も図っていた。
そして9月に入ると居城である大津城に籠城、ここに至って東軍としての旗幟を鮮明に打ち出した。この高次の動きに対し、西軍では毛利(末次)元康・小早川秀包兄弟(毛利元就の八男と九男)に立花宗茂(秀包の義兄弟)らが率いる1万5千(一説には最大4万とも)の軍勢を派遣。9月7日から始まった攻防戦は実に1週間にも及んだが、奮戦及ばず最後には降伏を余儀なくされ、高次も高野山に上り出家する事となった。
しかし大津城が開城したのは9月15日の朝の事。つまり高次は関ヶ原本戦当日まで西軍の大軍を釘づけにし、宗茂らの名将を関ヶ原に向かわせなかったという、本人も意図せぬ大戦果を挙げたのである。これは義兄弟にあたる徳川秀忠率いる東軍の大軍が真田昌幸の籠る信州上田城を攻めるも落城できず、遂に関ケ原に間に合わなかった事とは完全に正反対の結果となり、真田昌幸と同等の戦果を挙げたとも言えた。
そして関ヶ原本戦の後、家康からは東軍勝利に貢献した功績により若狭8万5千石を与えられ、翌年には旧領の近江高島も含めた9万2100石にまで加増されるに至った。
その後も慶長14年5月3日(1609年6月4日)に47歳で没するまで、小浜城の築城や城下町の整備など、領国経営に精力的に務めた。高次の系統の京極氏は後に讃岐丸亀に減転封されるが、以降も幕末に至るまで当地を治めつづけ、明治期以降は華族にも列せられた。
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戦国時代 江戸時代 京極高吉 京極マリア 京極高知 初(常高院)
- 佐々木道誉:先祖。バサラ大名と恐れられた。