概要
1570年、浅井長政とお市の次女として誕生。本名は初。姉は茶々で、妹は江。
1573年、お市の兄・織田信長が浅井氏を滅亡させ、初たち三姉妹はお市と共に織田家に保護される。
1582年に信長が横死したことにより、信長の後継者争いが勃発。清洲会議の決定により、お市は織田家家老・柴田勝家と再婚した。
翌年、勝家は賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉に敗北。北庄城の戦いにおいてお市と共に自害した。
1588年ごろ、姉・茶々が秀吉の側室となった。
1598年に秀吉が没する。
1600年、関ヶ原の戦いにおいて夫・高次は徳川家康を総大将とする東軍に所属。大津城の戦いには敗北したものの、東軍本隊が西軍主力を撃破したことにより京極家は勝者となる。
1603年、家康が江戸幕府を開く。
1609年、夫・高次が没すると出家して常高院と号す。
のちに、徳川家康は淀殿(茶々)の子・豊臣秀頼と対立するようになる。
そして、1614年に大坂の陣が勃発(大坂冬の陣)。江戸幕府軍と豊臣軍が講和会議を開くと、初がそれを常高院として執り成した。前述通り、淀殿は秀頼の母で、江の夫は二代将軍の徳川秀忠だったため、両陣営に姉妹を持つ常高院は仲裁役に適していたのだった。そして講和は成功する。
しかし講和は破談し、翌年に大坂の陣が再発(大坂夏の陣)。秀頼と淀殿は自害し、江戸幕府軍は勝利した。
1633年に没した。夫の高次との間に子はいなかったものの浅井三姉妹の中では最も長命であった(妹の江は1626年に既に病死)。
彼女が建てた常高寺に葬られ、そこには常高院ゆかりの文化財がある。
また、常高院に養育されて大坂の陣に従軍した川崎正利の孫が溪心院である。溪心院は正利から、お市と浅井三姉妹に関する仔細な情報を聞かされ、覚書風の消息文である『溪心院文』をまとめている。これが浅井三姉妹を知るうえで重要な史料となっている。
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