京極高吉
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きょうごくたかよし
京極高吉とは近江の守護大名・京極高清の次男で京極高広の弟。後に浅井亮政に国を追われてからは将軍家等に仕えた。(1504年-1581年)
1504年、京極高清の次男として誕生。兄に京極高広がいる。一説では父は高清の義兄・京極材宗の子とも伝わるが不明。
父に愛されて京極家の次代当主に任命されるが、兄の高広とは仲が悪くその為に度々兄と争った。しかし後に高広は近江の国人衆・浅見貞則と家臣の浅井亮政を味方に付けた事により高吉は敗れて父ともに尾張に逃亡した。
高吉は六角家を頼り、再び高広・亮政と争った。やがて高広も亮政に反旗を翻すとこれに便乗した。亮政は流石に敵を2つにするのは良くなかったのか、遂に元主君・高清に謝罪した。これにより、父と共に北近江に迎えられて再び領主に返り咲いた。
しかし結局は亮政の傀儡であった為に不満を持って逃亡。その後は足利義輝の配下に加わり1559年まで仕えたとも伝わる。
1560年、高吉は最後の賭けとして六角義賢と結んで浅井賢政と戦うが敗れる。この賭けの失敗の代償は大きく、近江の残された支配権を失う事となった。
賭けに失敗した高吉は足利家に再び仕え、1565年に義輝が討たれるとその弟である足利義昭を当主にする為に活躍。義昭が将軍になった後も引き続いて仕えるが、義昭が織田信長と対立すると、長男の小法師を信長に人質として差し出して自身は近江に隠居した。
安土城が完成すると高吉は妻・京極マリアと共に移住し、そこで暮らしたとされる。1581年にグネッキ・ソルディ・オルガンティノからキリスト教徒としての洗礼を受けた。
ところが、洗礼を受けた数日後に77歳で謎の急死を遂げた。一説では人々は仏罰で死亡したとも伝わる。
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