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関東管領の編集履歴

2024-11-26 19:35:22 バージョン

関東管領

かんとうかんれい

南北朝時代から室町時代、戦国時代にかけて実在した室町幕府の役職。

南北朝時代から室町時代戦国時代末期にかけて実在した室町幕府の役職。


概要

室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は関東以北の支配を固めるため、当初は鎌倉に嫡男・義詮を置き、関東執事に斯波家長が就任した。

当時、京の都を拠点とする北朝方と吉野に拠点を置き虎視眈々と京へと攻め寄せようと機会をうかがう南朝方が対立しているだけなく、鎌倉幕府残党も北朝方と対立する構図が出来上がっていた。

家長が北畠顕家との戦いで討死してからは上杉憲顕が後任となり高重茂(師直師泰の弟)も務めたことがある。


のち北朝内部の実権をめぐって尊氏の弟・直義直冬(尊氏の庶子、直義の養子)と高師直師泰兄弟の対立が深刻化、高兄弟側に尊氏もついたことで尊氏・直義兄弟の関係も悪化し観応の擾乱に突入していくことになる。


貞和5年/正平4年(1349年)、両派の対立が先鋭化するなか、尊氏は政務に専念させるため義詮を鎌倉より呼び寄せると同時に四男・基氏を派遣して関東公方(鎌倉公方)とし、憲顕と高師冬(師直の猶子)らが幼い基氏の補佐役となった。


しかしこの二人は極めて仲が悪く観応元年/正平5年(1350年)、直義派の憲顕が師直派の師冬を攻撃して自刃に追い込んだ。観応の擾乱終結後、憲顕は免職され越後に隠棲し畠山国清とが関東執事職に就いた。国清は新田義興を謀殺したりするなど辣腕を奮ったが諸将から総スカンを食らって免職され反乱を起こして斬られた。基氏は国清の後任として憲顕の出廬を要請。憲顕は再度関東執事となる基氏の子の氏満の代まで手腕を振るった。関東執事が関東管領と呼ばれるようになったのはこの頃とされる。その後も関東管領職は有力御家人・上杉氏が世襲継承することとなった。


以後、関東の重職として勢力を保ち続けるが、関東公方との対立、同族である扇谷(おうぎやがつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏の勢力争いが起き徐々に衰退、戦国時代には小田原・北条氏、甲斐・武田氏、越後・上杉氏などの有力戦国大名に圧迫されたことで、上杉氏最後の関東管領・上杉憲政は長尾政虎(後の上杉謙信)に身を寄せ、後継者として政虎に関東管領職を譲った。


関連タグ

南北朝時代(日本) 室町時代 戦国時代 室町幕府


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