概要
1933年、大阪は戦の炎に包まれた!道頓堀は枯れ、通天閣は裂け、全ての食い倒れ太郎は絶滅したかのように見えた。だが、グリコは死滅していなかった!
…というのは冗談、ジョーダン、マイケルジョーダン。
大阪で信号無視をした(とされる)陸軍兵士と取り締まろうとした警察官とのトラブルから、警察対陸軍の全面対立に発展した。
まあ、当時は信号機自体が日本に登場してから3年しか経っていないし、信号自体を知らない人も少なくなかったから信号無視をしても仕方ないねっ(良かないやろ!)
事件の発端
事の発端は1933(昭和8)年6月17日11:40頃、場所は大阪府大阪市の天神橋筋六丁目交差点。
交通整理をしていた大阪府警察部(現在の大阪府警に相当)曽根崎警察署の戸田忠夫巡査(25)は、路面電車に乗車する為に信号無視をして交差点を横断する陸軍兵士を発見する。兵士は第4師団歩兵第8連隊第6中隊の中村政一一等兵(22歳)で、公用外出中だったが戸田巡査は中村一等兵を「そこの者、止まれ!信号が見えんのか!?」と呼び止めて天六派出所へ連行した。
中村一等兵は「軍人は憲兵の命令には従うが、警察官に従う義務はない」と反論し、戸田巡査と拳で語り合う事になる。
結果、中村一等兵は鼓膜損傷により全治三週間、戸田巡査は下唇裂傷により、全治一週間の傷をそれぞれ負うことになった。
流石に見かねた野次馬が憲兵を呼んで中村一等兵を引き剥がし、その場は収まったように見えたのだが…
2時間後、憲兵隊は曽根崎警察署に対して「公衆の面前で軍服着用の帝国陸軍軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」と抗議する。
戸田巡査は「信号無視をし先に手を出してきたのは中村一等兵だ」と主張、中村一等兵も「信号無視などしていないし先に殴ってきたのは戸田巡査だ」と反論して平行線となる。
ちょうどその日、お互いの上官である第8連隊長の松田四郎大佐と曽根崎署の高柳博人署長が共に不在であり、上層部に直接報告が行く事になり事態は更に悪化する。
泥沼の争い…絶対に負けられない戦いがそこにはある(?)
6月22日、第4師団参謀長の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査だけの事件に留まらず、皇軍の威信に関わる重大な問題である」と声明を出し、警察に謝罪を要求した。 それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長(現在の警察本部長)も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官だ。謝罪の必要などない」と発言。6月24日には第4師団長寺内寿一中将と縣忍大阪府知事の会見が行われるが決裂する。
東京では、問題が陸軍と内務省との対立に発展する気配となり、荒木貞夫陸軍大臣が「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と息まいたが、山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長(現在の警察庁長官)は謝罪など論外で、中村一等兵こそ逮捕起訴すべきとの意見で一致した。
そして7月18日、中村一等兵は戸田巡査を相手取って大阪地方裁判所に告訴する。その後は戸田巡査には私服の憲兵が、中村一等兵には私服の刑事がそれぞれ付き纏い、憲兵隊が戸田巡査の本名は中西で、隠したまま勤務している事を暴露すると、警察は中村一等兵が過去に7回の交通違反を犯している事を発表して泥仕合となった。
……少し頭冷やそうか。
マスコミはこの事件を「軍部と警察の正面衝突」と大々的に報じて大阪市民を沸き立たせ、寄席では漫才の題材にもなった。
…あんたらはあんたらで何やっとんねん…
…と、ここまでならば笑い話で済んでいたが(全然済んでへんで!)いよいよ洒落にならなくなる。
事件の対応に四苦八苦していた高柳署長が過労で倒れて入院したのだ。
その事を知った寺内中将は「心痛で病状が悪化すると気の毒だから適当にお見舞いするように」と伝えたが薬石効なく、そのまま7月28日には腎臓結石で帰らぬ人となる。
更に8月24日には国鉄吹田操車場で事件の目撃者の一人である高田善兵衛が轢死体となって発見された。
彼は警察と憲兵隊の双方の事情聴取に耐えきれなくなり車両に身を投げたと推定されており、遂に事件を巡って死人が出る事態となってしまったのだ。
鶴の一声…急転直下の解決
解決の糸口が見えなくなりつつあったが、事態は意外なところから収束に向かう。
この事件がやんごとなきお方の知るところとなったのだ。
侍従武官に対し「大阪の事件はどうなっている?」と御下問あらせられたと聞いた陸軍は恐懼し、あのお方にこれ以上のご心痛をおかけする事は余りにも畏れ多いと一気に和解へ向けて舵を切った。
そして寺内中将の友人である白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出して和解が成立した。
11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、11月20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が握手をして事件は解決をみたのである。