ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ゴー・ストップ事件

ごーすとっぷじけん

戦前の帝国陸軍と警察の間で繰り広げられた小競り合いに端を発する仁義なき戦いである。
目次 [非表示]

概要編集

1933年、大阪府大阪市北区で起こった陸軍兵と巡査のケンカに端を発する警察陸軍の紛争である。

「ゴー・ストップ」とはすなわち信号機を意味する。

事件現場である天神橋筋六丁目交叉点にちなんで天六ゴーストップ事件天六事件、またはゴー・ストップを和訳して進止事件とも。


当時の大阪は東京をもしのぐ世界有数の大都市となっていた「大大阪時代」の末期であり、また満州事変により中国大陸が紛争状態に陥っていたこともあって、軍の影響力が次第に強まっていくことを象徴したような事件であった。


当時は信号機自体が物珍しく、道路交通法制も現代の目線からすれば未整備の状態であった。

さらに道路行政は内務省令によって出されており、陸海軍省とは直接関係していなかった。

そして肝心の「赤信号は止まる」というルールが法制化されたのは戦後の1947年のことである。


事件の発端編集

事の発端は1933(昭和8)年6月17日11:40頃、場所は大阪府大阪市の天神橋筋六丁目交叉点

交通整理をしていた大阪府警察部(現在の大阪府警に相当)曽根崎警察署の戸田忠夫巡査(25)は、路面電車に乗車する為に信号無視をして交差点を横断する陸軍兵士を発見する。兵士は第4師団歩兵第8連隊第6中隊の中村政一一等兵(22歳)で、慰労休日で映画を見るために外出中だったが戸田巡査は中村一等兵を「そこの者、止まれ!信号が見えんのか!?」と呼び止めて天六派出所へ連行した。

中村一等兵は「軍人は憲兵の命令には従うが、警察官に従う義務はない」と抗弁し抵抗、派出所内で拳で語り合い中村一等兵は鼓膜損傷により全治三週間、戸田巡査は下唇裂傷により、全治一週間の傷をそれぞれ負うことになった。

一連の騒ぎを見かねた野次馬が憲兵を呼んで中村一等兵を引き剥がし、その場は収まったように見えたのだが…


それから2時間後、憲兵隊は曽根崎警察署に対して「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」と抗議する。

お互いに事情聴取を行ったが、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出してきたのは中村一等兵だ」と証言、中村一等兵は「信号無視などしていないし、自分から手を出した覚えはない」と反論して平行線となる。

間の悪いことにお互いの直属の上官にあたる第8連隊長の松田四郎大佐と曽根崎署の高柳博人署長が共に不在であり、上層部に直接報告が行く事になり事態は更に悪化する。


泥沼の争い…絶対に負けられない戦いがそこにはある(?)編集

警察側は事態を穏便に済ませようとしたが、6月21日には事件の概要が憲兵司令官の秦真次中将や陸軍省にまで伝わった。

6月22日、第4師団参謀長の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査だけの事件に留まらず、皇軍の威信に関わる重大な問題である」と声明を出し、警察に謝罪を要求した。

それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長(現在の警察本部長)も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官だ。謝罪の必要などない」と発言。6月24日には第4師団長寺内寿一中将と縣忍大阪府知事の会見が行われるが決裂する。


東京では、問題が陸軍と内務省との対立に発展する様相となり、荒木貞夫陸軍大臣が「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と息まいたが、警察を所管する山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長(現在の警察庁長官に相当)は軍の圧力に対抗し謝罪など論外で、中村一等兵こそ逮捕起訴すべきとの意見で一致した。

当時の内務省は強力な権限を持ち、内務官僚は東京帝国大学法学科を上位の成績で卒業したスーパーエリート集団であった。


そして7月18日、中村一等兵は戸田巡査を相手取って大阪地方裁判所に告訴する。その後は戸田巡査には私服の憲兵が、中村一等兵には私服の刑事がそれぞれ付き纏い、憲兵隊が戸田巡査の本名は中西で、隠したまま勤務している事を暴露すると、警察は中村一等兵が過去に7回の交通違反を犯している事を発表して泥仕合となった。

ただし戸田巡査については婿養子であり、あくまで結婚前の苗字を通称として使っていたにすぎない。


マスコミはこの事件を「軍部と警察の正面衝突」と大々的に報じて大阪市民を沸き立たせ、寄席では漫才の題材にもなった。

当初市民の間では警察を批判する声が多かったが、事情が知れ渡るにつれて軍の横暴を批判する声が高まった。


…と、ここまでは市民が娯楽の題材にする程度の小競り合いに収まってこそいたが、中央官庁を巻き込み始めた対立は収拾がつかなくなっていった。

事件の対応に四苦八苦していた高柳署長が過労で倒れて入院したのだ。

その事を知った寺内中将は、井関参謀長に「心痛で病状が悪化すると気の毒だから適当にお見舞いするように」と伝えたが薬石効なく、そのまま7月28日には腎臓結石で帰らぬ人となる。

さらに8月24日には国鉄吹田操車場で事件の目撃者の一人である高田善兵衛が轢死体となって発見された。

彼は警察と憲兵隊の双方の事情聴取に耐えきれなくなり車両に身を投げたと推定されており、遂に事件を巡って死人が出る事態となってしまったのだ。


大阪地方裁判所検事局の和田良平検事正は、「兵士が私用で出た場合は交通法規を守るべき」と警察寄りの見解を示しつつ、もし裁判になればどちらが負けても国家の威信が傷つくとして仲裁に尽くした。


鶴の一声…急転直下の解決編集

解決の糸口が見えなくなりつつあったが、事態は意外なところから収束に向かう。

この事件がやんごとなきお方の知るところとなったのだ。

侍従武官に対し「大阪の事件はどうなっている?」と御下問あらせられたと聞いた陸軍は恐懼し、あのお方にこれ以上のご心痛をおかけする事は余りにも畏れ多いと一気に和解へ向けて舵を切った。

そして寺内中将の友人である白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出して和解が成立した。

11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、11月20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が握手をして事件は解決をみたのである。


事件の解決を一番喜んだのは寺内中将だったとされる。

陸海軍軍法会議法では一般の警察官も軍人の犯罪行為を告発する義務があったが、これは憲兵を有さない海軍に譲歩したという経緯もあって兵士の犯罪の取り締まりは本来は憲兵が行うとされていた。

この事件を機に現役軍人に対する行政行為は憲兵が行うことが意識されることとなり、満州事変後の世情において憲兵や軍組織の統帥権と国体の問題を改めて印象付ける事件となった。


軍と警察の衝突は明治期より見られ、大阪では1884年に西区松島遊郭で兵士と警察官の乱闘の末死者が出る事件も起きていた。

また長州閥である陸軍が憲兵を創設したのはそもそも薩摩閥の警視庁を牽制するためだったとも言われている。


関連タグ編集

大阪 大阪市 大阪府 大阪府警

警察 陸軍 抗争 戦前 事件 信号無視 喧嘩

関連記事

親記事

大阪市 おおさかし

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました