ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ハインリヒ・ヒムラー

はいんりひひむらー

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler)とはナチス・ドイツの軍人、政治家。親衛隊長官である。

概要

1900年生まれ。

父親は税務官ギムジナウ(ドイツの中高一貫校)教職員バイエルン王国王子の家庭教師というエリートだった。

そうした影響なのか、体は弱く、病気がちの少年だった息子ハインリヒは成績は優秀な生徒だった。

第一次世界大戦後に父親から「この戦争の後、色々ヤバそうだから農業で働け」と言われて農家で働くが、農業を学ぶためにミュンヘンの大学に進学。

卒業後は農薬や肥料を取り扱う会社の研究員となるが、当時政治的に混乱を見せていた世相を重んじて、ナチスに入党する。

入党当初は、後に敵対することになる突撃隊の長官エルンスト・レームの元で働いていたが、1925年に親衛隊SS)というヒトラーボディーガード部隊に移転し、すぐに全体的な指導者、長官となる。

ヒムラーは親衛隊を党内全体の警察組織とするために親衛隊の人員を拡大させる。さらに、党内や国内の情報をよく仕入れるための情報部を作るため、元海軍で冷酷とカリスマに長けた軍人ラインハルト・ハイドリヒを親衛隊に招いた。

隠密な政治活動を上手く行うラインハルトの影響は親衛隊を、何よりナチスをより良く発展させる一因となり、ナチスが権力を掌握すると秘密警察・ゲシュタポの長官に任命され、対立関係にあった突撃隊の幹部を斃し、全ドイツ警察長官にも任命。

そして、強制収容所の支配権を抱き、親衛隊に武装親衛隊という戦闘部隊を成立させ、これがユダヤ人を絶滅に至らせようとする悲劇、ホロコーストにつながる。

1939年から第二次世界大戦がはじまるが、1942年に部下のハイドリヒとアドルフ・アイヒマンが「ヴァンゼー会議」という高級の政治家・軍人を集めてユダヤ人の対処を語り合い、結果、ユダヤ人を絶滅させるという方針が決定。

この頃、ヨーロッパ各地に住んでいたユダヤ人はゲットーという地で隔離生活をさせられているだけだったが、誰もが強制収容所に送られ、強制労働と死が待ち構える地獄のような地に送られる。

ユダヤ人をこうした状況に貶めたのは、親衛隊だった。戦地においてもユダヤ人をはじめとするロシア人などが武装親衛隊によって虐殺されることが多かったという。

敗北寸前の1945年、ヒトラーの誕生日にベルリンへ赴くが、すぐさまヒトラーの元を離れてしまう。

なぜなら、負けそうで滅びそうなのだから連合国と和平交渉しようとしていた。

これを知ったヒトラーはキレて全官職をクビし、逮捕命令を出したが捕まる事無く、ヒトラー死後に成立した降伏政府・フレンスブルク政府へ返り咲くが、連合国から今まで行ってきた非人道的行為ために嫌われており、色んな意味で邪魔者扱いされて放逐され、戦犯として追いかけらる。

一般兵として隠れていたが発見されて捕まりそうになるが、服毒自殺してこの世を去る。

逸話

  • 農業の教育と仕事の経験があったためか、植物や動物が大好きだった。
  • 非人道的な事をしてきたが個人的には思いやりのある好人物といわれる。しかし、女性と家族に対しては冷たい態度で接してきて、離婚したことがある。
  • ある時、強制収容所に見学しに来て、その時ユダヤ人の処刑を見てしまい、吐き倒れそうになったそうで、それを見ていた親衛隊員が非公開と隠密のために最前線へ送られてしまったという。
  • ロマンチストでドイツにおける過去の歴史や文化、特にオカルトという宗教信仰の知識を良く調べるという趣味を持っていた。それが、親衛隊にも影響し、アーネンエルベという古代史の研究機関を置いたり、栄光や戦勝の為だかで気味悪い儀式を行ったり、何でも願いが叶うという聖杯を探したりなど、ちょっとアレな要素のおかげか、後に『インディ・ジョーンズ』『Diesirae』『HELLSING』などオカルトを題材とした作品でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。

関連記事