1977年11月7日生まれ、青森県出身。ニックネームはミスターストイック。K-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメント2004、2005、2009優勝世界一決定トーナメント2002年・2004年ベスト4。
キックボクサーとしてデビューする前は、極真空手を習っていた。
1997年1月全日本キックでデビュー、5月デビュー2戦目で魔裟斗との対戦となったがKO勝ち。
所属ジムがJ-NETへ移籍、12月新田明臣にKO負け。
1999年フリーに転向、チームドラゴンへ移籍。さらにその後年、正道会館へ移籍。
2000年1月ムエタイ王者に勝利するなどキックボクシング界ではビッグネームだった、「地獄の風車」ラモン・デッカーに、初めて勝利した日本人となる。
同年6月、K-1 WORLD GP IN スイスでマリノ・デフローリンと対戦。WKA世界ミドル級タイトルマッチを行うもハイキックでダウンを奪われて判定負け。
2002年、キックボクシングの礎を築いた空手家・黒崎健治が主催する黒崎道場に移籍、練習相手もいないスパーリングも出来ない環境で身の回りのことやトレーニング全てを自力で行うスタイルで精神面の強化には繋がったが、ガードの甘さやカウンターのもらいやすさなどの弱点改善には至らなかった。
同年2月K-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメントで準優勝、しか準決勝では(大野崇)で鼻骨骨折・肩を脱臼した状態だった。決勝では魔裟斗に判定負けしリベンジを許す。
同年5月、K-1 WORLD MAX世界一決定トーナメントに主催者推薦枠で出場。マリノ・デフローリンにボディへの膝蹴りでリベンジ勝利するが、優勝候補筆頭でムエタイ2大殿堂の一つルンピニーの現役王者でもあったガオラン・カウイチットに膝蹴りで2ラウンドKO負け。
同年10月K-1 WORLD MAX世界王者対抗戦でピーター・クルックに4Rにハイキックでダウンを奪い試合を優勢に進めるも、最終Rに逆転のKO負け。
2003年2月日本代表決定トーナメントで安廣一哉にダウンを奪われ判定負け、3連敗。
さらにこの前後には父親が急に他界するという不幸にも見舞われ、メンタルが地獄のどん底まで落ちていた。あまりに急だったため保険にも入っていなかったので実家が大変な事になり、格闘家も引退しようかという瀬戸際だったが、家族の後押しで現役続行となった。
同年古巣・チームドラゴンへ復帰。
同年11月、K-1 WORLD MAX2003 世界王者対抗戦でトニー・バレントに得意のローキックでKO勝利し、1年数ヶ月ぶりの勝利となった。
2004年2月K-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメントでついに優勝、準決勝では武田幸三に飛び膝蹴りでKO勝ち。決勝ではトルコから特別参戦したセルカン・イルマッツに判定勝ちを収めた。
同年7月K-1 WORLD MAX世界一決定トーナメントで、マイク・ザンビディスに膝蹴りでダウンを奪って判定勝ち。しかし準決勝ではブアカーオ・ポー・プラムックの膝蹴りでアバラを折られKO負け。
同年10月K-1 WORLD MAX世界王者対抗戦でアルバート・クラウスに飛び膝蹴りでダウンを奪って判定勝ち。
2005年2月K-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメントで連覇、1回戦では安博一哉に延長判定2-1で判定勝利。決勝ではリザーバーから勝ち上がった新田明臣に前蹴りでKO勝ち。8年ぶりのリベンジ勝利。
7月世界トーナメントの前に足を怪我し、アンディ・サワーに圧倒され判定負け。
2006年7月K-1 WORLD MAX世界一決定トーナメント、ついに因縁の魔裟斗戦が実現、両者1勝1敗3度目の決着戦として注目されたが、パンチでダウンを奪われ判定負け。
2007年2月K-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメント、足のケガの影響もありアンディ・オロゴンにダウンを奪われ判定負け。
2009年2月K-1 WORLD MAX日本代表決定トーナメント、史上初の3度目の優勝となった。しかし世界一決定トーナメントは怪我により欠場となる。
現在は事実上現役を引退し、後進の指導に当たっている。
2014年から2017年までK-1に出場した選手達の指導に当たっていたが、金銭面のトラブルからK-1サイドと衝突し指導者を退任する(現在はK-1サイドと和解し横領を行ったことは否定したが一部自身に落ち度があったことは謝罪した)
入場曲はキッズアーントオールライト。
格闘家としても人間としても非常に不器用で口下手な選手だった。
ローキック、膝蹴り、ハイキックなどの蹴り技を得意としたが、前述通りガードが甘く一撃で形成逆転されてしまうことが多かった。しかし魔裟斗、武田幸三、佐藤嘉洋らとともにK-1中量級の日本勢を長年にわたって支え続けてきた。
2003年~2005年くらいまで試合において手数が少ない事が多く、ブーイングされる事も多々あったが、2006年因縁の魔裟斗戦では試合序盤から非常に手数が多く名勝負だったため、負けはしたがこの試合が小比類巻のベストバウトと名高い1戦。
ニックネームのミスターストイックは、本人は一言も言っていないにもかかわらず、勝手につけられて大迷惑だったよう(格闘家のニックネームは申告制などではなくマスコミが勝手につけている事が大半)。