幕末に毛利敬親の居城として築かれた城。
続100名城の高嶺城の麓に築かれた。
現在の山口県庁でもある。
元々江戸時代初期に長州が新たに居城を築く際に幕府に候補地3つを申請した中に「高嶺城山麓」が含まれていたとされる。
しかし幕府の策略により海側に萩城を築くことになった。
ところが萩城は洋上から砲撃されやすい(鹿児島城のように)ため幕府には「城主の居館」と申請し「山口城」を新たに築くこととなった(山口移鎮)
山口移鎮は悲願、とも言われるが実際には遅々として進まず都市規模も萩の2割程度だったとされる。
1866年頃までは萩と山口の二極体制が続く。
1867年にようやく「山口への完全移行」が宣言されたが、その2年後に明治維新を迎える。
別名は山口政事堂。