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黄河決壊事件

こうがけっかいじけん

黄河決壊事件は、支那事変のさなかに国民革命軍が黄河を爆破し決壊させ、大惨事を招いた事件である。
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概要

 この件は日中戦争(両国ともに宣戦布告されていないため日本では支那事変)中に発生した事件であり、国民革命軍により黄河中流域の堤防(この堤防は国際連盟から送られた専門家の支援によるものであったとされる)を日本軍前衛部隊の背後を突く形で決壊させたものの、日本軍には被害を及ぼさず失敗し、逆に一般人に多大な被害を与えた件である。なお、中国国民党は当初「日本の砲撃および爆撃によるもの」、後に「日本軍による破壊工作」と主張していた。
 中国では決壊させた地域の地名を取り花园口决堤事件と呼ばれる。

詳細

 支那事変において、『国共合作』(盧溝橋事件および第二次上海事変により日本の脅威が増したため、中国共産党コミンテルンの働きかけにより中国国民党と協力関係になったこと)により毛沢東が率いる共産紅軍、これは国民革命軍に組み入れられて国民革命軍新四軍、国民革命軍第八路軍となった、と組んで日本との戦いを始めた蒋介石であったが、日本に対しては圧されっぱなしであり、この時点では首都であった南京を陥落させられていた。民国27年(1938年)6月、日本軍の進撃を阻もうと黄河堤防爆破する計画を立て、これは蒋介石により承認され、中国軍はこれを実行した。これは不意打ちの意図を持っているため、近隣の住民のみにしか作戦は報告および補償はなされなかった。

影響

 この時期は現地は雨期に差し掛かっており河川には水が多くあり、被害全貌には諸説あるものの、一説には11都市4000が水没し、水死者100万人、その他にも600万人、また別の説では死者および行方不明89万人、被災者1000万人超、また別の人物の発表では死者300万人、移住300万人、要救援1,500万人という被害を出す大惨事であったといわれる。
 この件の影響は直接的影響だけでは終わらず、この人為的水害が原因により黄河の流れが変わってしまい、水が流れなくなった中国北部では旱魃により大飢饉が発生、新たな流れが発生した中部では逆に洪水が多発し不作も発生、被災地の食糧不足に悩んだ両軍部隊、特に国民革命軍は民衆より食糧等の強制徴収を行ったため、飢饉はさらに深刻化しまった。この影響は第二次世界大戦終結後、堤防の根本的な修復がなされる民国36年(1947年)まで続いた。
その惨状を見た当時のアメリカ人記者は、
  「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
と報じている。
 またこの被害およびこの戦争における悪政(日本軍の進軍していない長沙に周恩来など中国共産党幹部の暗殺を目的として火をつけた長沙大火や、焦土作戦の一種で陣地以外を焼き払う堅壁清野湯恩伯の軍拡張による圧政など)のため、国民革命軍のこの地域の住民の支持はほぼなくなり、日本軍が河南省を大陸打通作戦により制圧する際には住民は侵略者であるはずの日本軍に協力した、とされる。

プロパガンダ

 中華民国側は事件直後より、この失敗した堤防決壊作戦を日本軍のしわざとして宣伝も行っており、自らは被災者救助も行っているものの、日本軍はこの活動を妨害し、事態を悪化ていると主張したものの、アメリカ以外、たとえばフランスの政党の機関紙やスペインの報道機関、さらには現地住民らはその主張はプロパガンダに過ぎず実際には自作自演であり、むしろ状況を悪化させているのは中華民国であることが早い時期に見破られている。
 ちなみに、この堤防決壊よる日本軍兵士の死者および被害は出していない(ただしその後の中国軍の活動により被害は出ている)とされる。また進軍は一時中断した(そのため民国29年まではこの作戦は部分的に成功、とされていた)が、二ヵ月後には武漢三鎮を占領されており、現地の被害を考えればたいした足止めにはなっておらず、ただ中国人大量殺戮しただけで終わっている。

余談

 なおこの事件が発生した後、日本軍は早期の復旧および後の作戦の支障阻止のため堤防の応急処置を行なっただけでなく、被災した中国民衆救助や、伝染病の蔓延を防ぐための防疫作業を行なった。一方国民革命軍はそれらの活動を妨害したとされる(中国軍側の動きは日本側の資料にしか出ていないため不確定である)。

関連タグ

日中戦争
蒋介石 国民革命軍 中国国民党 中華民国
虐殺 殺戮 略奪 飢餓

参照

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