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概要編集

1579年の末にペルーのリマで白人の父と黒人の母の間に生まれた。彼の父は彼を認知せず、妹が生まれると家族を去ってしまう。貧しい育ちながら家族を支える為に理髪外科医に弟子入りしつつ、夜間は信仰深く祈りを捧げていた。15歳になるとカトリックドミニコ会の聖ロザリー教会にお手伝いとして入る。というのも、当時は混血児に対する差別により正式に会員になることができなかったのだ。

それからも真摯に理髪外科医として働きさらにキッチン仕事に掃除に洗濯にと献身し、聖ロザリーに入って8年経った頃に修院長により正式にドミニコ会に入会を果たす。しかし聖ロザリーの修道士達の中には混血である彼に対し暴言を吐いたり馬鹿にする者もいた。教会が借金に陥った時には「自分はただの貧しいムラートです。私を売りなさい。(意訳)」と言うなど献身的。また聖餐に強く執着し、彼が祈りを捧げてる祭壇が燃える事件があっても、混乱に陥る人達を他所にその場に残り祈り続けた、なんてエピソードがある。


34歳になると彼は修道服を与えられて病院に任命され、59歳に死去するまで彼は病人を貴族も奴隷も分け隔てなく世話した。全身膿だらけの老人を運び込んだのを仲間に咎められた際には「清潔より優しさを優先する(意訳)」と言った。他にも疫病が広がるのを恐れた修院長が病人を受け入れるのを辞めるよう言ってからも止まらなかったのを咎められると「お許しください、従うことが尽くすことより重要だと知らなかった。(意訳)」と言い、以降修院長は彼の行動を止めることがなくなったという。

募金をしてはその大半を貧困に苦しむ人の食事の為に使った他、孤児院の建設も手掛けた。そんな彼を奇跡と結びつけることは珍しくなく、納得もいくというもの。

1963年に死去した彼は教会内外から親しまれており、25年後に彼の死体が墓から掘り起こされると(この時彼の肉体は全く劣化してなかったという)、ローマに列福を求める手紙が送られた。1763年に教皇クレメンス13世は彼を讃える声明を発表し、1837年に教皇グレゴリウス16世は彼を列福し、1962年にヨハネス23世が彼を列聖した。彼は混血や理髪師や公衆衛生従事者などの守護聖人である。


彼は黒いスカプラリオとフードを着て箒を持った姿で描写される。箒を持っているのは如何なる仕事をも大事にしたことから。また、側で犬や猫や鼠などが同じ皿から仲良く食事を取る描写を含まれることもある。

そんな彼の記念日は11月3日。


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聖人 カトリック教会 ムラート

献身 修道士

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