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服部半蔵(歴代)の編集履歴

2014-09-14 09:50:39 バージョン

服部半蔵(歴代)

はっとりはんぞうれきだい

本稿では、戦国時代に活躍した歴代の「服部半蔵」達について記載する。

初代服部半蔵・保長

生没年に関しては一切不明。保長は「やすなが」と読む。

戦国時代に活躍した歴代の服部半蔵の中では、正真正銘の伊賀流忍者である。

伊賀を出た当初は、室町幕府12代将軍足利義晴に仕えていたが、幕府自体が衰退期を迎えてしまった為に、見切りをつけた保長は、三河へと移動し、松平清康(後の徳川家康の祖父)に仕える。この事が、伊賀流忍者と江戸幕府の深い繋がりを持つ切っ掛けとなっていく。

しかし、松平家も「森山崩れ」を境に衰退の道を辿っていく事になり、それ以降の保長の動向も不明。一説では、「天正伊賀の乱」の際に戦死したとされている。また、別説では伊賀の乱後も生存し、家康に仕え続けていたが、「伊賀越え」の次期に息子の正成に家康の事を任せ、自身は伊賀に戻って隠居した(あるいは後進の指導にあたった)とされている。


2代目服部半蔵・正成

正成は「まさなり」または「まさしげ」と読む。

戦国時代に活躍した歴代服部半蔵の中でも、最も有名なのが、この2代目服部半蔵である。「鬼半蔵」の異名を持つ程の名将として活躍している。父親の保長とは違い、忍者ではなく武将に過ぎなかったとされているが、忍者としての訓練も受けていたという説もあり、一部の記録などでも正成は戦場で忍者の様な俊敏さを持ち、伊賀流忍者達を率いた撹乱戦も得意としていたとされている。また、戦いでは槍の使い手であったとされている。

父・保長から家督を継いだ正成は、姉川の戦い三方ヶ原の戦いといった戦いに家康と共に参戦し、武功をあげていった正成は家康から槍を褒美として与えられた。

後に、家康の嫡男である松平信康が、正室であり信長の娘である徳姫の出した手紙が原因で謀反の疑いを掛けられる事になった際は、信長に逆らう訳にはいかなかった家康の命によって、切腹をする事になった信康の介錯をする事になった。しかし、主君の家康を守る為とはいえ、あまりにも理不尽な出来事だった為に、どうしても解釈が出来なかったとされ、検死の武士天方道綱が代行したと言われている。このことは後に家康からも「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をより一層評価したという。

戦国時代の正成の活躍でも特に有名なのが、明智光秀の内乱によって織田信長が死亡した「本能寺の変」直後に、家康が明智軍から逃れるべく敢行した「伊賀越え」である。家康の護衛をしていた正成は、商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し彼らに警護させて一行を安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで護衛しており彼らは後に伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。

豊臣秀吉が死去し、家康によって江戸幕府が開かれた後も、正成は8000石を領し、伊賀同心200人の支配役を任され、幕府を縁の下の力持ちとして支え続けた。

数多くの苦難を家康と共に経験した正成は、徳川四天王や本多正信にも引けをとらない信頼を家康から得ていたとされている。


3代目服部半蔵・正就

正就は「まさなり」と読む。2代目服部半蔵・正成の嫡男として生まれた。

戦場ではいつから出陣していたかは不明であるが、15歳くらいの時には父・正成と共に戦場に出陣し、徳川家康に仕えていたとされている。小牧・長久手の戦い小田原征伐でも、父・正成と共に徳川軍として参加したとされている。正室は松平定勝の長女・松尾


慶長元年(1596年)の12月末に、父・正成が没してからは、その長男であった正就が3代目服部半蔵として伊賀同心達200人の支配役を任される事になり、伊賀忍の抜け忍とされている石川五右衛門や、北条家に仕えた忍者で盗賊に成り下がった風魔小太郎の捕縛に、少なからず関わっていたとされている。ただし、これらは創作の可能性も否定できない。


慶弔10年(1605年)、同心の支配役を任されたに過ぎない正就が、同心達を家来扱いしているとして、同心達の殆どが武装して四谷長善寺に立て篭る事件が発生。現代でいうストライキである。彼らは正就の支配役解任と自分達の与力への昇格を要求し、この騒動の結果、正就は役を解かれる事になった。更にその後、逆恨みした正就は、騒動の首謀者である同心10人の死罪を要求し、逃げた2人を追った末に別人を殺してしまった結果、完全に職を失い、浪人にまで落ちぶれてしまう事になった。

ただし、これらの騒動に関しては、正就一人が一方的に立場の悪いものとなっている事から、正就を貶める為に仕組まれた同心達側の陰謀説も囁かれている。元々伊賀流は、金銭的利益の為ならばいかなる勢力にもついて同胞同士での殺し合いも厭わない部分があった為、利があるとはいえ徳川家に仕え続ける同心の支配役を任されていた服部家そのものの方針に反発したのが、本当の理由であった可能性もある。

また、正就が騒動を起こした首謀者の死罪を要求したという話も、増長し始めた伊賀同心達を危険視した本多正信天海が、同心達への牽制として家康に進言したという説もある。


浪人になった後は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。その後、名誉挽回を狙い、松平忠輝の軍に属して大坂・夏の陣に参加するも、運の悪い事に自身が所属する軍の指揮官である忠輝が軍を大幅に遅らせてしまった結果、戦場に辿り着いたのは中盤以降になってしまった挙句、最終決戦時に消息不明となってしまう事になった。

一説では、名誉挽回が出来なかった事を恥じて自刃したとも、主君や妻子の元に帰るに帰れず、農民として余生を過ごしたとも言われている。また、別説では伊賀の同心支配役を解任された後も同心達から邪魔者扱いされ続け、名誉挽回されて支配役に戻ってしまう事を恐れた同心達に暗殺され、遺体も処分されたとされている。歴代の服部半蔵の中でも、謎の多い末路を遂げた言える。


4代目服部半蔵・正重

正重は「まさしげ」と読む。2代目服部半蔵・正成の次男として生まれたが、兄の正就とは15歳程の年齢差がある。


1600年、天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」にて、正就に同行する形で初陣となった。しかし、戦いの前日夜に、家康から正就と共に父・正成の偉業を聞かされた正重は、手柄にあせる余り、家康や正就に無断で、合戦の開戦前に敵陣に単独で入り、侍大将の寝込みを襲う形で首を討ち取る。

しかし、これは戦国時代の合戦における暗黙のルール違反であり、家康や正就に侍大将の首を見せて事の経緯を得意げに話した正重は、逆に家康から「父親はその様な卑怯者ではなかった」と、怒りを買ってしまい、正就が許しを求めた結果、処罰は受けなかったが、恩賞も無しとされている。


その後、正就が同心の支配役であった事から、自身は大久保長安の元に仕えて彼の娘を正室に迎える事になり、以降は佐渡金山の政策を担当する事になった。

しかし、運の悪い事に、長安が豊臣家の実権を握っていた淀殿や下克上を狙っていた伊達政宗と結託して徳川家の潰しを行おうとしていた、高山の金銀横領といった疑いが掛かってしまい(金銀を秘蔵していたのは一応の事実で、更に長安は自身専用として黄金の棺桶という贅沢極まりないものを作らせていた)、家康はこれらに激しく激怒したという。

何とかその時はお咎め無しで済んだ正重であったが、その後目付から佐渡で待機する言いつけを守らず、その対岸の出雲崎で目付達を出迎えた結果、結局は家康の激怒を買ってしまい、所有していた3000石も没収となった。


浪人となったその後は、様々な藩に家来として仕えたものの、どれも取り潰しやお家断絶、家督争い等で再び浪人となり、最終的には兄嫁の松平家に召抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなった。



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