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フランクリン・デラノ・ルーズベルトの編集履歴

2015-04-19 03:46:30 バージョン

フランクリン・デラノ・ルーズベルト

ふらんくりんでらのるーずべると

アメリカ合衆国の第32代大統領。

概要

生年没年 1882年1月30日~1945年4月12日

大統領任期(第32代) 1933年3月4日~1945年4月12日


生涯

ニューヨーク州のオランダ系実業家大地主の家に生まれた。デラノ家は清朝末期のアヘン貿易で巨富を築き、香港にも豪邸があった。第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは従兄に当たり、遠縁にはウィンストン・チャーチルがいる。


弁護士を経て1911年にニューヨーク州から上院議員に選出され、ウィルソン政権では海軍次官となり、ニューヨーク州知事を歴任。1933年、民主党に所属して世界恐慌対策を確約にして当選し、第32代大統領に就任。

大統領となったルーズベルトはニューディール政策を実施。大規模な国土開発や労働基準の改善による雇用作成、個人や企業の金保有を禁止して、金本位制を停止し、大恐慌で不景気となったアメリカ経済を建て直した。また、ラジオ放送を積極的に使って国民との対話を重視した。


中南米に対して「善隣外交」の名の下に友好を深めながら、気に入らない国の政権には海兵隊を送り込んで軍事介入して親米傀儡政権を作っていった。キューバの独裁政権・バチスタはその一例。

1930年代、ヨーロッパではアドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツが、アジアでは大日本帝国が勢力を拡大し、イギリスのチャーチルや中華民国蒋介石は支援参戦を求めたが、当時のアメリカ外交の基本方針は中立・不干渉のモンロー主義とし、ルーズベルトも国民にはアメリカは戦争に関わらないと公約としていた。その一方裏では対中支援工作「援蒋ルート」を計画し、日中戦争が起こると資金援助だけでなく中国軍人としたアメリカ航空兵を戦闘機とともに送り、中国軍のマークをつけて日本軍と戦った。(ただし、このやり方は国際法違反に値する行為でもあった。)

1941年にチャーチルと会談し、ドイツの勢力拡大に対する基本方針「大西洋憲章」を発表。これが国際連合の原点となり、領土不拡大や民族自決などを明記したが、植民地支配を諦めないチャーチルは民族自決の点でルーズベルトとは意見が不一致となった。


対日政策は偏見も籠もったもので、暗礁に乗り上げていた。日本の仏印進駐と日独伊枢軸同盟を機に日米関係は悪化し、ABCD包囲網で日本経済を圧迫。ハル国務長官はハリー・デクスター・ホワイトが起草したハル・ノートを提案し、ルーズベルトはこれを了承して日本側に手交。中国撤兵や枢軸同盟破棄などを盛り込んだ最後通牒といえるもので、ついに日本軍は真珠湾を奇襲攻撃し、日米開戦となった。攻撃と宣戦布告で手違いにより宣戦布告が遅れてしまい、攻撃は卑怯な不意打ちとなり、ルーズベルトはこれを利用し、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉を使って国民を煽り、対日独参戦を決定。欧州と大西洋だけだった戦争はアジアと太平洋も合わせた、「第二次世界大戦」となった。


開戦になるとアメリカ国内の日系人を収容所へ送り、米軍をヨーロッパ・アジア・太平洋各地へ出兵させた。さらに原爆開発の「マンハッタン計画」を極秘裏に進めた。

1943年にカイロ会談で台湾満州を中国に返還し、朝鮮を独立化すると取り決めた。1945年にヤルタ会談ではチャーチルを抜きにしてスターリンと会談を行い、ソ連に千島列島を割譲することを条件に対日参戦の密約を取り決めた。

大統領選で4選目勝利という史上初めての最多再選という大統領となったが、1945年4月に別荘で急死した。享年63歳。


人物

切手集めが趣味で、推理小説のファンだった。

1921年にポリオ(一説にはギラン・バレー症候群)を発症し、それ以来後遺症によって下半身が麻痺し、車椅子の生活を余儀なくされた。しかし、病気のことは国民には隠し続け、人前でも車椅子姿をできるだけ見せようとしなかった。


評価

アメリカ歴代大統領の中でも有数の人気を誇る大統領で、経済の建て直しや世界大戦で強力な指導力を発揮したとして評価は高い。

しかし、中国への過大評価とソ連・スターリン・共産主義への警戒心の無さによってその後の世界情勢に多大な悪影響を与え、不参戦の公約を破ってアメリカを戦争に巻き込んだと言う批判も多い。

ニューディール政策はこの政策単独で上手く言ったかは疑問が多く、戦争に伴う戦時好景気がなければ効果は無かったとも言われる。

中国に対しては母方の祖父の影響で中国文化には幼い頃から接し、媚中と言えるほど同情的・友好的感情を持っており、それゆえに日本の満州事変以来の大陸進出には反感を持っていた。だが、現実における中国の情勢や情報については把握しておらず、側近ですら疎かった。にも関わらず、米中は共同で日本を打ち負かせると信じていた。戦後の国際秩序構想として「4人の警察官」を持っており、米英中ソが各々で地域秩序を担って、国際社会世界平和は維持できると考えていた。

戦争遂行に当たっては国務省にほとんど頼らずに、自分個人やわずかな側近との相談でしか勝手な計画で進めたことが多く、その点から反感も多かった。ルーズベルトが死去して副大統領のハリー・S・トルーマンが次期大統領となったが、トルーマンは原爆計画もヤルタ密約も全く知らされておらず、大統領就任後にこの事実を知って驚き、とくにヤルタ密約については深刻な問題と受け止めた。

ルーズベルトは自分のことをスターリンとともに現実主義者でチャーチルは理想主義者でダメだと語っていたが、傍から見ればチャーチルが現実的でルーズベルトこそ現実性のない理想主義者どころか夢想家と言える。

戦後、ハーバート・フーバー元アメリカ大統領はダグラス・マッカーサーと会って、ルーズベルトを「狂人」と呼び、「日本との戦争のすべてが、戦争を仕掛けたいという狂人の欲望だった」と語っている。


対日感情

日本に対しては偏見に満ちた嫌悪感を持っていた。日本人は白人に比べて頭脳が遅れた人種だと主張し、疑似科学的に頭蓋骨にその特徴があると言っていたほど。連合国の中で唯一、ナチスのユダヤ人強制収容と同様の日系人強制収容を実行し、中南米にも圧力をかけて日系人収容所を作らせた。さらに戦後の日本人を他の人種と交配させて、日本人をなくそうという民族浄化計画すら考えていた。また黒人の公民権運動を妨害する差別的姿勢を見せていた。

日米開戦よりも前の早い段階から対日開戦を計画し、そのための挑発や圧力、日本本土攻撃計画を練っていた。また、ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前に知りながらわざと見過ごした、あるいは攻撃させるためにわざとハワイに艦隊を集結させていたという陰謀論もある。

実は、ハル・ノートを作成したホワイト氏はソ連と情報をやり取りしていたソ連の工作員であることが判明している。言うなれば、日米開戦にはソ連の意志が介在していたことになる。


関連タグ

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