概要
島風とは、旧日本海軍が保有していた駆逐艦の一隻の名称である。また島風型駆逐艦は丙型とも呼称された。
大日本帝国海軍の一等駆逐艦。1941年(昭和16年)8月8日に京都府の舞鶴海軍工廠にて起工し、1943年(昭和18年)5月10日に竣工した。
島風型駆逐艦は次世代の艦隊型駆逐艦として16隻の建造が決定していたが、太平洋戦争開戦後に海軍が空母機動部隊を主戦力にした事や機関の量産が困難だった事から計画は放棄され、防空艦型(秋月型駆逐艦)と丁型(松型駆逐艦)へと移行し、島風1隻のみとなった。
最高速力は40.3ノットで、試験では40.9ノットも記録していた。ただし、この試験は日本海軍の公式諸元による2/3荷重ではなく、1/2荷重での計測である(と、いっても米英の公式諸元と同じ)。
40ノットがどれくらい速いかというと、一般的な魚雷の速度が大体その程度である。
日本海軍が運用していた酸素魚雷は最大52ノット(魚雷は速力の調整が可能)を誇っていたが、日本以外の国で酸素魚雷は実用化できていない。
つまり、最大速度で航行中に真横や後ろから魚雷を撃たれても絶対に当たらない。そんな速度である。
機関出力は実に75,000hpで、これは扶桑型戦艦のそれに匹敵する。なお、海上自衛隊のあたご型護衛艦の機関出力は100,000ps。
なお、速力だけではなく武装も非常に充実しており、12.7cm砲を連装3基6門、魚雷は61cm酸素魚雷を5連装3基15門、その他対空機銃、水中探信儀(ソナー)、電波探信儀(レーダー)を搭載していた。
特に魚雷の同時発射数は破格である。計40門を搭載していた重雷装巡洋艦の半分以下であるため一見地味に見えるが、巡洋艦と違って船幅が狭いため、一つの魚雷発射管で両舷をカバーできることから、両舷15門、巡洋艦なら30門搭載しているのと変わらない、「重雷装駆逐艦」とでも呼ぶに相応しい雷撃能力を持っていた。
ただし、同時期に建造された駆逐艦の多くが装備していた次発装填装置は装備されていない。
この仕様は、航空機の発達に伴い、敵艦への雷撃も殆どは艦上攻撃機が担うようになり、駆逐艦が雷撃を行うチャンスは一度あるかどうかという太平洋戦争中期以降の状況には合致するものであった。
また、当時の駆逐艦としては珍しく竣工時点で22号電探を搭載されており、キスカ島撤退作戦の際には「電探をはじめからつけた高速艦が応援に来た」と評判になったようだ。
なお、同時期に建造された秋月型防空駆逐艦にも同様に竣工時から21号電探が搭載されていた。
竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入されて後に「奇跡の作戦」と称されるキスカ島撤退作戦に参加。作戦終了後、精鋭部隊の第二水雷戦隊に編入されて南方方面で護衛任務に当たる。シブヤン海海戦では武蔵に乗り込んでいた摩耶の乗組員を救助した。
そして1944年(昭和19年)11月11日、レイテ島北西部のオルモック湾にて輸送船団を護衛中に米海軍第38任務部隊の艦載機347機と交戦。当時世界最高水準の速度を遺憾なく発揮し攻撃を回避し続けたが、機銃掃射や至近弾によるダメージが原因で航行不能となり、冷却機能を失いオーバーヒートを起こしたボイラーが爆発して沈没した。
ちなみに最後を共にした指揮官は第一次ソロモン海戦当時鳥海艦長で再突入を三川軍一中将に進言したことで知られる勇将早川幹夫海軍少将(戦死で中将に進級)である。
「規格外の高性能」「1隻しか存在しない」「専用パーツで整備性に難がある」など、ガンダムのような逸話を複数持つ。
ちなみに、第二次世界大戦当時のものは二代目であり、初代は1920年(大正9年)に竣工した峯風型駆逐艦の一隻である。こちらも舞鶴生まれ・速度記録持ちで、二代目はそれにあやかったもの。大戦時は、改装され名前も第1号哨戒艇に変わっていたが健在だった。しかし、二代目の竣工する4か月前の1943年(昭和18年)1月12日、戦没した。
↑こちらは初代「島風」
番外:海上自衛隊の「しまかぜ」
ちなみに、名前を継いだ護衛艦のほとんどが先代より小さい(例:金剛(2代)32,000トン、こんごう(3代)7,250トン)が、しまかぜさんは先代より大きい稀有な例である(島風(2代)2,567トン、しまかぜ(3代)4,650トン)。なお、先代(および初代)「島風」のように特段速いということはなく、最大速は他の護衛艦と同じ30ノットである(初代「島風」も、姉妹艦の中で唯一40ノット越えを記録した俊足の持ち主。二代目「島風」の名はその記録にあやかって命名されている)。
御年25歳。そんなお年でこんな格好をされたら、はっきり言って俺のハープーンを全力発射。
駆逐艦級名