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概要

戦前日本日本陸軍が秘密裏に創設した、スパイ教育養成訓練するための秘密機関。

1937年に岩畔豪雄中佐が日本の諜報技術を向上させる必要性に参謀本部に意見書を提出し、1938年に「防諜研究所」を新設。翌年に「広報勤務要員養成所」に改編し、1939年に東京都中野区に九段から移転し、1940年に「陸軍中野学校」と改名された。空襲の激化で1945年群馬県に疎開され、遊撃戦ゲリラ戦)を主目的として、1944年には静岡県二俣に「陸軍中野学校二俣分校」が作られた。

学生は普段は軍服を着ず平服がほとんどで、一般的な軍人の髪型もしなかった。天皇に対する考えも当時の一般的思想と比べて自由に意見をし合い、英語も普通に使われていた。日露戦争で活躍した明石元二郎が講義で何度も紹介され、学生たちの指針や英雄となっていた。

午前中は諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関する講義がされ、午後は自習となっていた。科目も軍事関連だけでなく、外国語武術医学実習忍術心理学気象学統計学など多種多様だった。

卒業生大東亜戦争でスパイとして国内が各地で活動。アジア各地の独立運動を助け、連合国軍相手に情報戦や撹乱も展開。沖縄戦でも活動。

戦後、中野学校は日本軍とともに解体された。卒業生の中にはGHQ内部に潜入して撹乱を図った者や戦後アジアの独立戦争に身を投じた者もおり、戦後もフィリピンのルバング島で戦闘を続けた小野田寛郎もゲリラ戦を教えられた二俣分校の出身者だった。

その後の中野学校跡地は警察学校となり、2016年現在は警察病院公園となっており、近隣には、明治大学早稲田大学帝京平成大学の中野キャンパスやキリンホールディングスの本社がある。

現在、陸上自衛隊小平学校の心理戦防護課程が中野学校の流れを汲む後継組織と言われる。

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