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1924年5月21日に峯風型2代目神風型駆逐艦の流れをくむ一等駆逐艦のの第三弾として佐世保海軍工廠にて起工、1925年7月23日に進水し、1926年3月25日竣工。

当初は八八艦隊構想による量産型一等駆逐艦として大量に建造される計画だったため、名前が足らなくなることから「第十九号駆逐艦」と名付けられた。

だがワシントン海軍軍縮条約により八八艦隊構想が頓挫したことにより、それに合わせて名前が足りたことから「睦月」と改名された。

ちなみに睦月型の艦名のほとんどは明治・大正時代の駆逐艦(初代神風型)で使われており、睦月型のほとんどは二代目なのであるが、「睦月」だけは使われておらず、この睦月が初代となる。どうやら、初代神風型建造当時の天皇陛下の諱が「睦仁」なので、同じ文字を使うのは恐れ多いとして使われなかったらしい。

帝国海軍の駆逐艦としては初めて61cm魚雷を装備し、雷撃力が峯風型・2代目神風型よりも大幅に向上した。

竣工後は姉妹艦の如月弥生望月と「第三十駆逐隊」を編成。

1930年11月中旬の神戸沖での観艦式では御召艦「霧島」の供奉艦に如月、弥生、卯月と共に指定された。

1935年9月下旬、に台風によって多数の艦艇に被害の出た第四艦隊事件に遭遇。睦月も剥き出しのキャンバストップ型艦橋が圧壊し、航海長が死亡。これを受けて修理の時に設計が改められ、艦橋の形状・材質を変更。魚雷発射管にもシールドが取り付けられた。

1937年からの支那事変により中支、南支方面に進出する。この時に卯月が第二三駆逐隊に転属となったため、代わりに望月が第30駆逐隊に編入となった。

1941年7月には、試験的に「ダズル迷彩」と呼ばれるパターンの迷彩塗装が如月と共に施された。

1941年11月の太平洋戦争開戦時、「睦月」は第四艦隊第六水雷戦隊第30駆逐隊に所属。12月8日の真珠湾攻撃をうけて第四艦隊はウェーク島攻略作戦を発動。第六水雷戦隊・第十八戦隊(天龍龍田)を基幹とする攻略部隊はクェゼリン環礁を出撃し、12月10日夜ウェーク島に接近する。

ただしこの戦闘では米軍の機転を利かした反撃や、上陸作戦に手間取り、それによって艦隊の身動きが取れなくなってしまったなどの要因によって失敗。僚艦「如月」を損失してしまっている。

リベンジとなる12月21日以降の第二次攻略作戦では、南雲機動部隊より派遣された第二航空戦隊蒼龍飛龍)が航空支援をおこない、第六戦隊青葉衣笠加古古鷹)が陸上支援に加わった。この苛烈な攻撃によって3日の後、ウェーク島は陥落した。

その後もラバウル方面、ラエとサラモア、ブーゲンビル島、ポートモレスビーの各攻略作戦に参加し、5月8日の珊瑚海海戦にはMO攻略部隊として参戦。ただしMO攻略作戦は艦隊編成の不備によって失敗してしまった。

5月9日、第30駆逐隊はナウル/オーシャン攻略作戦(RY作戦)に参加。だが作戦中に攻略艦隊旗艦「沖島」が潜水艦にやられてしまったため、これを睦月が曳航。だが努力むなしく沖島は沈没。追い打つように米反撃部隊の接近を知り、RY作戦は中止となった。

5月25日、沈没した如月の補充として、卯月が再度編入される。

1942年6月中旬、ミッドウェー海戦の敗北により空母機動部隊の主力を失った日本海軍は、 航空戦力補充のために航空基地の強化と整備を行う必要に迫られ、南洋諸島の航空基地確保・設営および強化を目的とした『SN作戦』が発令された。睦月もガダルカナル島の飛行場建設をおこなう陸戦隊や基地設営隊輸送船の護衛として参加した。

7月14日、日本海軍はミッドウェー海戦の敗北にともなう戦力の再編成を実施。睦月は第30駆逐隊の旗艦として空母護衛を目的とした第八艦隊へと所属する。

8月24日、第30駆逐隊司令艦「睦月」は弥生、磯風陽炎江風を率いて米軍に占拠されたガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場砲撃任務を命じられ、これを砲撃。だが夜間で視界不良だった上に、敵爆撃機の反撃や、こちらの火力不足によってこの第一次ソロモン海戦は失敗している。

8月25日、睦月ら駆逐艦隊は第二水雷戦隊旗艦「神通」らの護衛する輸送船団に合流。だがそこにヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレス急降下爆撃機8機の奇襲を受ける。これによって輸送船「金龍丸」が撃沈され、睦月はこの生存者の救出に当たった。だがそこをさらにSBDドーントレス急降下爆撃機3機に襲われ、後部機械室に爆弾1発が命中し撃沈されてしまう。

生存者は旗艦を引き継いだ弥生に救助され、トラック泊地への撤退に成功している。

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