クリント・イーストウッド
くりんといーすとうっど
人物
本名はクリントン・イーストウッド・Jr。スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいている。家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家であるが、幼い頃の生活は世界恐慌の煽りを受け苦しかった。
朝鮮戦争時に2年間陸軍に入隊しており、「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」や「グラン・トリノ」の主人公役の設定に盛り込まれている。(ただし、映画の主人公は戦場へ従軍していたが、イーストウッド自身は戦場へ行ってない。)
『おっと。考えは判っている。俺がもう六発撃ったか、未だ五発か。・・・。』
1930年、サンフランシスコ生まれ。ロサンゼルスシティ・カレッジの演劇コースで演技を学ぶ。
1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶも、当初はB級映画の端役しか与えられないという不遇の時代を過ごした。しかし、テレビドラマ「ローハイド」に出演した事でブレイク(この時、初来日を果たす)。
そして、マカロニウエスタンの巨匠:セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』に立て続けに主演。これをきっかけに俳優としての評価が上がる。
さらに1972年公開の『ダーティハリー』でアクションスターとしての地位も確立。同シリーズは彼の代表作となる。
1968年には自身の制作会社『マルパソ(日本語に直すと「険しい道」)・カンパニー』
を立ち上げ、1971年に『恐怖のメロディ』で初監督。
以後、次々に「主演・監督作」を発表。1992年には『許されざる者』で自ら西部劇を監督し、アカデミー賞(監督賞・作品賞)とゴールデングローブ賞を受賞した。
その後も『マディソン郡の橋』や『ミスティック・リバー』といった文芸性の高い作品も手がけ、2004年の『ミリオンダラー・ベイビー』で2度目のアカデミー作品賞・監督賞のダブル受賞を果たす。
ちなみに音楽への造詣も深く、自身で作曲もこなす。
2014年に監督した「ジャージー・ボーイズ」の宣伝では、トニー賞の授賞式などにもひょっこり顔を出していた。
本人曰く「グラン・トリノ」をもって、以後は監督業に専念するとの事……だったが、それ以降も結局俳優業をしている。
(後に、これは、記者の聴き違いだと言う事が判明している。)
『泣けるぜ・・・。』