概要
タイ王国のプラナコーンシーアユッタヤー郡(アユタヤ群)アユタヤ県に存在する、1351年~1767年まで、タイ全土と一時期は現在のラオス、カンボジア、ミャンマーの一部を統治するほどの勢力を持っていたアユタヤ王朝が作り上げた遺跡群である。
『アユタヤ歴史公園』とも呼ばれ、世界遺産として登録されている。
詳細
中心都市であるアユタヤは、流れの穏やかなチャオプラヤー川に位置した貿易に持ってこいの地形で、アユタヤ王朝のナーラーイ王は、それを利用し貿易を独占して莫大な利益を収めることに成功し、同時に上座部仏教を信仰していたことから、この莫大な利益を元に数々の寺院を作り出した。
しかし後の1767年に、ビルマの侵略を受けてアユタヤ王朝が崩壊し、多くの建造物や石像が破壊されてしまい、世界的に見ると多くがまだ比較的新しい建造物でありながら、ほとんどが瓦礫のみとなってしまっている。
だが、仏教文化の粋が詰まったこの遺跡は、9割が仏教徒で占められているタイ王国の国民にとっては紛れもない聖域であり、世界中の仏教信仰者たちにとっても聖地とされている。
遺跡群はチャオプラヤー川とその支流であるパーサック川やロップリー川に囲まれた中州に集中しており、これは敵軍の攻撃を防御するため、中心部の回りに運河を掘ったことによるもの。
上述したビルマの攻撃から、建造物の多くは瓦礫となっているが、ワット・プラシーサンペットやワット・ローカヤスターラームなどの寺院跡や、王宮跡は残っており、王の台座も無事である。
アユタヤ日本人町
アユタヤには、14世紀中ごろからアユタヤ王朝崩壊のころまで、日本人移民による日本人町が存在していた。
当時のアユタヤ中心地からチャオプラヤー川沿いに南に下った東岸にあり、西岸にあったポルトガル人町とは相対の位置で、南北約570m、230mといった敷地に、最盛期では1000~1500人の日本人が住んでいたとされている。
15世紀後半から16世紀初頭までの間はアユタヤ王朝の配下にあり、日本とタイの軍事力と貿易による利潤を背景に、政治的にも力を持っていた。
特に江戸時代初期にタイへ渡り、現地の日本人傭兵隊に加わって頭角を現し、後に日本人町の頭領となった、元沼津藩の武士である「山田長政」は有名であり、タイでは彼は伝説的な人物として称えられており、2010年には彼を主人公に添え、その活躍を描いたタイ映画「ヤマダ アユタヤの侍」が公開され、人気を博した。
その後、鎖国政策がとられたことで、海外に出向く日本人の数が少なくなり、アユタヤ王朝の崩壊により、日本人移民たちは現地タイ人たちと同化していったとされるが、現在もタイの別地域に複数の日本人町が形成されており、アユタヤの日本人町もタイ王国の世界遺産となったアユタヤの一部として、町の跡地に記念碑が建てられている。