フレッチャー級とは、第二次世界大戦中に製造されたアメリカ海軍の駆逐艦の艦級の一つ。級名は、1番艦フレッチャーによる。
なお、珊瑚海海戦やミッドウェー海戦において空母ヨークタウンを率いて日本軍と対決したフランク・J・フレッチャー提督は、駆逐艦フレッチャーの艦名の由来となった20世紀初頭の提督フランク・F・フレッチャーの甥である。
この艦は空母のエセックス級や、潜水艦のガトー級、さらには輸送船のリバティ船輸送と並ぶ、アメリカの量産艦艇の代表例である。その同型艦数は175隻と、世界史上最多である。ちなみにこの数は、大日本帝国が第二次世界大戦中に所有していた駆逐艦、太平洋戦争開戦時に保有していた111隻に戦争中竣工させた63隻を加えた174隻よりも多い。
船舶のデータ
日本海軍が1937年に1番艦を竣工した朝潮型駆逐艦及びその改良型と並ぶ、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の影響を脱した、2,000トン級の大型駆逐艦であるが、1942年竣工と大きく遅れた。
これは、アメリカ合衆国がイギリスとともに軍縮条約の延長体制下にあったからである。このため、駆逐艦量産の第一陣は前級のベンソン級およびリヴァモア級となっており、フレッチャー級の改良型のアレン・M・サムナー級とギアリング級も量産されている。
主砲は対空能力を万全に備えた12.7センチ両用砲を単装5基5門備え、大戦中そこに対空射撃レーダーやボフォース40ミリ機銃を追加している。
むろん本来の任務である対潜能力も高い反面、魚雷兵装は5連装発射管が2基10門と、数はともかく、直径が53センチなので、日本の駆逐艦と比べれば平均的である。
また、ダメコンにも気を配っており、左右軸のエンジンを前後に分け、一度の攻撃で動力源が全滅しないようにしている。この形式をシフト配置と言うが、スペースや手間を食うため大日本帝国海軍の軍艦には松型駆逐艦以外採用されていないものである。
駆逐艦としては当時珍しく平甲板( Flush Deck、前部から後部までが一面のフラットな甲板 )を採用しており、航海性能をやや犠牲にして頑丈さを追求した設計になっている。それでも2,000トン級の船体で、十分な余裕がある設計だったので特に問題は無く運用可能であった。
ただし1944年12月18日、コブラ台風により船が揺れ給油不可能となったフレッチャー級駆逐艦スペンスが沈没、これを例にあげ復元性が悪かったと言う者もいるが、最低気圧が907hPa以下、最大風速65m/s ( この数値は第四艦隊事件時の台風の2倍以上 )の記録的な台風であること、さらに条約型駆逐艦ファラガット級駆逐艦も二隻同台風で沈没しており復元性不良の根拠とするには無理がある。現に乗員からは航海性能を高く評価されており、実際、燃料タンクが空になっていなかった他のフレッチャー級は問題なくコブラ台風を乗り切っている。
戦後
ただ、船体をほぼ変えずに搭載武装を20%以上アップさせた次級のアレン・M・サムナー級では航海性能に問題が発生し、これはその次級のギアリング級で解決される事になる。
第二次世界大戦後、過剰になったこの種の艦艇は友好国各国に貸与、あるいは売却された。その中にはギリシャやブラジルが含まれ、メキシコでは21世紀まで使用された。かつての敵国も含まれ、日本の海上自衛隊においても貸与され、「ありあけ」「ゆうぐれ」の名称で1970年代まで訓練、試験などに利用された。