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藤堂平助の編集履歴

2017-08-21 11:31:32 バージョン

藤堂平助

とうどうへいすけ

新選組八番隊組長。御陵衛士。

概要

弘化元年(1884年)江戸にて誕生。出自には諸説あり伊勢津藩主藤堂高猷のご落胤とも言われるが、旗本藤堂家の出身であるとする説が有力である。

北辰一刀流玄武館で剣を学び目録を得る。深川の伊東甲子太郎(当時の名は伊東大蔵)の道場に出入りする他、近藤勇試衛館の食客となる。

試衛館の面々とともに浪士組に参加し上洛。京に残り、壬生浪士組(後の新撰組)を結成した。


池田屋事件では近藤らとともに最初に乗り込み、刀がボロボロになるほど奮闘したという。暑さのあまり鉢金を脱いだ隙を突かれ、眉間に深手を負い昏倒するが生き延びた。

その後、江戸にて隊士募集を行った際、かつての師である伊東甲子太郎と、その門弟や同志多数を引き込むことに成功。藤堂は引き続き江戸に残り、次の募集に備えての根回しを行った。


伊東甲子太郎らが御陵衛士を拝命し新選組を離脱するとこれに参加。南部与七郎と改名し、英語や砲術を学ぶ。美濃国の大博徒水野弥太郎に接触し勤皇活動への協力を取り付けるなどの功績を挙げた。また坂本龍馬暗殺の当日、伊東とともに近江屋を訪れ、龍馬と会談していた。

伊東が新選組によって暗殺された夜、遺体奪還のために他の御陵衛士と油小路へ向かう。そこで待ち伏せていた新選組と戦闘になり、服部武雄毛内有之助とともに討死した(油小路の変)。試衛館以来の同志である永倉新八は藤堂を逃がそうとしていたが、事情を知らない隊士によって斬られたという。


人物

新撰組隊士として部外者にも広く名が知られていたが、短すぎる生涯のためかその人物像に関する記録は少ない。


小柄な美男子であったと伝わる。

熱心な勤皇家であり、多くの志士たちを斬殺・捕縛する新選組に不満を抱いていたとする説もある。

新撰組幹部としては斎藤一と並んで最年少ながら、文武に通じ、沖田総司永倉新八、斎藤一と共に「新撰組四天王」と称された。

また市中見廻りの際には常に危険の多い先頭に立ち、「魁(さきがけ)先生」の異名を取った。


創作での藤堂平助


新撰組異聞PEACEMAKER / PEACEMAKER鐵

CV:鳥海浩輔

八番隊隊長を担う青年。北辰一刀流の使い手。永倉新八原田左之助とつるむ三馬鹿の一人で、江戸試衛館からの古株。

小さいもの、可愛いものが大好き(男女や動物なんでも)。「鐵」では額に池田屋事件時についた傷が残っている。

副長の山南とよく行動を共にしていた。だがの策略によって山南が亡くなったのを機に隊の方向性に疑問を感じるようになり、

伊東達に誘われて御陵衛士となり、自ら新撰組を出ていった。

脱退した理由は、さしたる根拠はなくただ純粋に、崩れていく隊を見るのが怖かった「恐怖心」からであったことを打ち明ける。

油小路事変にて新八、左之助と和解するも、平助を敵と思っていた他の隊士に後ろから切られ、二人に看取られて息を引き取った。


薄桜鬼

旋風一閃追憶の淵

CV:吉野裕行

ネタバレ注意


新選組八番組組長。最年少幹部。


戦いでも先陣を切り、何事にも真っ先に飛びつくやんちゃ気質だが、自分に出来る事を模索し続けている。祭り好きな性格のため、敵との戦闘を遊び半分で楽しむことも多い。好物は寿司


池田屋で天霧と戦うが敗北する。油小路で天霧と再戦するがまたも敗れ、重傷を負ってしまう。生きるために変若水を飲んで羅刹となって新撰組に復帰する。他ルートでも出番がある。


藤堂藩のご落胤であるが、いわゆるやんごとなき子供故、存在をなかったことにされているため、藩からは毎月金が送られている様子。そのことで悩んでいる描写もみられる。


洋装派と和服派では意見が別れる。また、髪型でも同様に対立が起こる。


関連タグ

新選組


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