『俺のTバードを馬鹿にしやがると許さんぞ!』
・エリア88「炎の老兵」より
T-6は戦後(1948年)に再生産されて以降の型番で、既に生産されていた機もこれに従って呼ばれた。採用された時の型番はAT-6。
『テキサン』とは
基礎練習機BT-9
1934年に陸軍から出された要求に基づいて、当時のゼネラルモータース航空機部門(当時。まもなくノースアメリカン航空機として独立する)が提出した練習機で、単発・単葉、主翼だけ金属製で固定式車輪という、単葉が少々垢抜けて見えたことを除けば、当時としても普通の練習機であった。ちなみに同年代の機として、日本は九三式中間練習機を開発しており、両国の考え方の違いが見て取れる。
この計画書、つまり社内設計書記号NA-16号は、基礎練習機BT-9として採用され、優れた素性や操縦性によって好評を博した。これに手ごたえを掴んだ陸軍はより高度な練習機を求め、これが続くBC-1として完成することになる。
また、BT-9とは陸軍航空隊での型番であり、海軍でもNJとして40機が採用されている。
戦闘教習機BC-1
先のNA-16号の設計を改良を加え、射撃練習用に武装を可能とし、車輪も引き込み式にしたNA-26号が基になっており、戦闘教習機BC-1として採用された他、タイ向けの軽攻撃機A-27として輸出されている。これはフィリピンでも駐留アメリカ軍に運用されていたが、大東亜戦争に伴うフィリピン侵攻により何れも破壊された。
海軍での型番はSNJ-1、およびSNJ-2。
高等練習機AT-6
このBC-1にセミ・モノコック構造を取り入れて、エンジンを換装するなどの改良を施した型が高等練習機AT-6(NA-59)である。
AT-6はアメリカ本国で運用される一方、イギリスへ向けて多くがレンドリースされている。イギリスへの供与名はノースアメリカン「ハーバード」といい、増強を急がれるイギリス空軍の飛行士育成に活躍した。そのほかにもAT-6は同盟国へと、またはレンドリースでソビエトに引き渡された機もあり、早くも世界中での活躍が始まりつつあった。
海軍での配備は1947年以降となり、SNJ-3(AT-6A相当)からSNJ-6(T-6G相当)までの各種が配備された。一部は着艦制動フックを装備して、着艦訓練にも使われている。
戦後のテキサス人
世界を股にかけたもの
第二次世界大戦が終結し、各国で一気に軍縮が始まった世界でも、T-6は必要とされていた。T-6も軍縮の例に漏れず、多くが現役を引退していたが、これが自家用機として払い下げられる一方、生まれたばかりのアジア・アフリカ諸国でも新しい生涯を始めていた。搭乗員の新規育成に利用する一方、射撃訓練にも転用できる特性を生かして国内平定へも使われたのである。
ノースアメリカンはこれら新規需要向けに生産ラインを復活させて新造機を生み出す一方、中古機も仕立て直しついでにG型へと改造し、シリア等で軽攻撃機としての活躍も残している。
テキサス浪人のご奉公
このT-6は1950年代までアメリカで運用され、その後は新造機・中古機が同盟国向けに供与された。替わって配備されたのはT-28「トロージャン」で、のちにフランスはアルジェリア独立戦争でこの機を対地攻撃に転用してCOIN機誕生の礎を築いた。
しかし今にして考えると、そういった分野でもT-6は先を行っていた。
朝鮮戦争では、T-6に地形を良く知る陸軍兵を同乗させ、攻撃機を間違いなく誘導する『モスキート・ミッション』にも動員された。この役割はまさにFAC(Forward Air Control:前線空中管制)とハシリだと指摘できるだろう。
T-6は操縦のし易さから対地直協機でも優秀で、地味ながらもよく使われた。
しかし性能そのものは時代遅れも甚だしく、ノースアメリカン社でも生産をT-28「トロージャン」へと切り替えて終了することになった。
ザ・テキサン・スター
そういう訳でこのT-6、再生産されたせいもあって、ウォーバードにしては状態のよい個体が多く出回った。
テキサン・ゼロ
そんな中で、おそらく最も有名であろうと思われるのが、映画『トラ!トラ!トラ!』で改造された「テキサン・ゼロ」、アメリカでは「トラ101」「トラ・ゼロ」として知られた機である。
この機はカナダ向けの「ハーバード」Mk.4を基によく似せて改造されており、とくにエンジンカウリングから風防、胴体後部に渡る部分は、そこだけ見れば本物とまごうばかりの出来だろう。(無論、知ってる人は違いが分るのだが)主翼端も元々の角ばったものを丸く整形し直しており、主翼に後退角が付いているのを忘れれば、これもよく似たもの。
このテキサン・ゼロはその後も「ミッドウェイ」や「アイアンイーグルⅢ」(日本では「エイセス~大空の誓い~」と題して放映された)に出演し、現在でも各地のショーで活躍するスター役者である。
エリア88
「あ・・・ああ、こいつは良い飛行機さ!空のイロハは、こいつに教えてもらったようなもんさ。操縦性は素直の一言。でもな、ジェットに乗り換えると、こいつのパワーじゃ物足りなくなる・・・母親みたいなもんだよ、こいつは」
1話だけの登場ではあったが、非常に印象深い活躍を残した。
作中ではエリア88中でも「対戦車攻撃のスコアNo.1」という老傭兵、モーリスの乗機として登場している。
サキからは「さすがにもう旧式だろう。新鋭機に買い換えたらどうだ。それ位のカネはとっくに貯まっているだろう」等と言われてしまうのだが、モーリス自身は「今さら新型になったって、自分にはもう付いていけない。何せ赤ランプひとつ増えただけでも訳がわからなっちまう。だから自分はコイツでいい、コイツがいいんだ」という本音をシンに吐露する。
だがその時、反政府軍はとうとう核ミサイルでエリア81を攻撃し、基地は壊滅してしまう。
にわかに忙しくなるエリア88だったが、そこへバッタの大群が飛来し、離着陸は完全に不能、滑走路もそうした事故機で塞がれてしまう。
そんな中、モーリスは「このテキサンなら大丈夫だ!ジェットと違って空気が不純物入りでもしばらくは保つ!砂漠用の防塵フィルターも付けてる!」と一人離陸、バッタの大群の中で燃料を放出して発砲し、みごと焼き払う事に成功した。
しかしその代償にテキサンは致命傷を負い、フィルターも完全にバッタで塞がれてしまって、モーリスもろとも散華してしまった。しかし、命を代償に開かれたこの道を、たった1機のF-15に乗ったシンが出撃し、核ミサイルを迎撃してようやく事なきを得る。
最後に添えられた以下のモノローグは印象深い。
いつの時代でも最新のものが最高だとは限らない・・・エリア88・・・Tバードに救われた貴重な一日・・・母は子供達のために、炎で道を開いた・・・俺たちは外人部隊・・・
紙切れよりも薄い己の命・・・燃え尽きるのにわずか数秒・・・
ちなみにT-6の場合、純正オプションではJu87G-1「カノンフォーゲル」のような大口径機銃は用意されていない為、自前で用意する(飛行機も自己責任で改造)するか、それとも小型爆弾を戦車の天面めがけて落とすかの2択になるだろう。「小型」ということで威力は無さそうに思われるが、実際には50kg爆弾でも155mm榴弾と同等の威力があるため、たとえ至近弾でも損害は免れないと思われる。
おそらく、モーリスは12.7mmガンポッドと小型爆弾(2個)装備で、戦車やその他の車両を狩ってまわっていたのだろう。対空放火もよく届く高度で、しかも日常的にそれを行っていたのだから、やはり優秀な傭兵だったと考えられる。
テキサンの現在
練習機として親しまれた素性のよさは相変わらずで、よく飛行士に愛される航空機である。
払い下げになった後の経歴も様々で、飛行クラブや農薬散布、果てはドサ回りの曲芸飛行士の相棒にと、広く用いられた。
もちろんアメリカでの人気も健在で、リノ・エアレースでは「テキサン級」という、T-6によるワンメイク部門が設けられている程である。その他各地の保存会でも、ウォーバード(War Bird:戦時中の航空機)として大事にされており、サーカスの前座からレースの真打ちまで、広く人気を博している。
テキサン2世の登場
現在でにアメリカでの命名基準は60年代と90年代の2回にわたって変更されており、その度に型番はT-1から振り分け直しになっている。(といっても番号振り分け直し以前の機でも、番号がカブらない場合はそのままの事もあるので、実際には新旧混在しているのだが)
そんな中、90年代から空軍と海軍は練習機の機種を統合して、経費を安くあげる計画を始めた。この計画はJPATS(統合基本航空機訓練システム計画)と呼ばれ、世界中から候補が集められて系統が始められる。
結果、採用を勝ち取ったのはスイス、ピタラス社のターボプロップ機PC-9 Mk.2であった。
これはPC-9練習機を基に、よりアメリカでの要求に応えるよう仕様が変更されており、何より国内メーカーのレイセオン・ビーチ社(現ホーカー・ビーチクラフト社)で生産される国産機となった。
テキサンの名は、「6番目の練習機」が襲名すべき名前である。
よって、PC-9はここに2代目テキサンことテキサンⅡ(ザ・セカンド)として生まれ変わり、現在も若き飛行士たちに、「空の母親」として羽を授ける毎日を送っている。
日本におけるテキサン
1955年1月から1970年にかけて、航空自衛隊が運用した例があまりにも有名。
元々は中間練習機として採用されたものの、基礎練習機のT-34が前輪式を採用していたのに対し、こちらは後輪式を採用していたこと、しかもその上の練習機がジェット機というのもどうなのよ?という意見が出たうえ、1950年代後半の時点でさえかなり陳腐化したことから、自主開発ジェット訓練機に置き換わることになった。そして1960年代にはその訓練機に置き換わる形でほとんどの機体は退役したものの、ごく一部は救難機として引き続き活躍した。
ただその救難機も三菱重工業が開発・生産したターボプロップビジネス機・MU-2(の航空自衛隊バージョン)に置き換わる形で姿を消した。
それでも創世記の航空自衛隊を支えた機体と言うこともあり、2017年年末現在、日本全国に12機保存されている(が、かつてはその倍以上は保存されていた)。しかも静岡県浜松市に保存されているものは、エンジンに常にオイルを仕込んであり、3、4ヶ月に一度はエンジンテストを行っているそうである。ゆえに、その気になれば空を飛ばすことも出来るらしい。
ほかにも海上自衛隊(アメリカ海軍風にSNJと呼ばれた)でも航空自衛隊と同時期に練習機として導入、富士KM-2(T-34の魔改造バージョンのひとつ)に置き換えられてからもしばらくは連絡機として使用されたという。こちらも山口県下関市などに計4機が保存されている。
実は、第2次世界大戦開戦前の1938年に海軍が2機購入していた。これを参考にして、福岡県の九州航空機というメーカーか練習機を開発したそうである。
また、航空自衛隊や海上自衛隊を退役した機体の中には、映画撮影のためにゼロ戦もどきに改造されてしまったものも少なくない。さらに言えば現存する保存機でも、石川県小松市と京都府南丹市に保存されているものは、日本海軍の塗装に塗り替えられてしまっている。