概要
杉原家定(秀吉の正室北政所の兄)の息子で、後に豊臣秀吉の養子となり、豊臣家の次期後継者として扱われる事になる。
突然の養子縁組
1594年、豊臣秀頼が誕生した事で事態が急変。秀吉に疎まれる様になってしまった秀秋は、五大老・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の元へ養子に出され、以後小早川氏を称するようになった。更にその一年後となる1595年には、自分と同じく秀吉の後継者として扱われた豊臣秀次が、言い掛かりを着けられるに近い形で切腹させられた挙句、その妻子達までもが皆殺しにされてしまい、自身もまた、謀反を企てたという全く根拠の無い濡れ衣を着せられる形で丹波亀山10万石の領地を没収されてしまうのだが、義父である隆景の働きかけによって、彼の所領である筑前(福岡県)30万石を与えられる事になった。
理不尽な厳封処分
1597年、15歳になった秀秋は、秀吉に朝鮮出兵の命令を受ける事になり、参戦。実質上の初陣であったにも拘らず数多くの戦功を上げており、加藤清正率いる部隊の窮地を救う活躍も見せた事から、彼からも一目置かれる存在となったのだが、その翌年の1598年、突如秀吉から帰国命令を受けた秀秋は、「戦場で軽率な行動をとった」と再び秀吉に言い掛かりを付けられる形で処分される事になってしまい、一気に所有領を半分の15万石にまで減らされた挙句、越前への転封を命じられてしまう。この結果、秀秋は多くの家臣達を解雇せざるを得なくなるという更なる屈辱的な決定を下さねばならなくなり、長い間補佐してきた山口宗永を始めとする小早川家の家臣達からも、半ば見限られる様になってしまった。
一説では、この大幅な厳封処分は、石田三成の進言であったとされている。元々人の好き嫌いが激しい三成は、秀秋に対しても偏見を向けていたとされ、また秀秋の元を去って行った一部の家臣は、三成の家臣として吸収されている。しかし、秀吉の病没後、さすがにこの時の処分は理不尽なものであると判断した五大老の筆頭・徳川家康の取り計らいによって、秀秋は旧領・筑前30万石に復帰する事になり、この頃より秀秋は家康との親交を密かに持つようになったとされている。
関ヶ原の戦い
1600年、家康と三成の対立が激しくなり、また上杉家が家康個人に対し挑発的な書状を送りつけたのが原因で、徳川軍による上杉家征伐の軍が起こされ、秀秋もまた家康に加勢する形で参戦する事になっていたのだが、家康が大阪城を空けた隙を突く形で三成が挙兵を起こした結果、出陣直前であった秀秋はまた巻き込まれる形で三成率いる西軍に所属させられる事になってしまい、京都の伏見城攻め等に参戦している。
しかし、三成や秀吉から散々な仕打ちを受け、また家康に多大な恩義のある秀秋が、家康と戦う事を望んでいるはずも無く、伏見城攻めの際、何とか東軍側へつく為に、その防衛を担っていた家康の家臣・鳥居元忠に対し、「東軍側につきたい」と交渉しようとしたのだが、聞き入れて貰えず、西軍のまま戦わざるを得なかった秀秋は、結果的に彼を死に追いやってしまう事になった。
その後の関ヶ原の戦いにて、小早川軍は開戦の時点で松尾山に布陣しているのだが、ここに陣取ったのは西軍の伊藤盛正を追い出したからである。ここでようやく、東軍側につく要求を徳川の使者から受け賜る事になった秀秋は、機を見て西軍から離反。西軍の大谷吉継率いる軍に向けて攻撃を開始し、それによって連鎖的に寝返りが発生する事になり、追い詰められた義継は自刃する事になる。この時の秀秋の決意によって、関ヶ原の戦いはたったの一日で、「東軍の勝利」という形で決着がつく事になったのである。(ただし諸説有り、後述)
最後
関ヶ原の戦い終結後、秀秋は前述の伏見城に関する件について謝罪した事もあって、それを許した家康から岡山藩55万石に加増を受けるのだが、2年後の1602年に突如として逝去、わずか21歳という若さで亡くなる事になり、子供もいなかったために岡山藩も取り潰しとなった。あまりにも突然の死だったために、大谷吉継の怨霊に憑かれたのではないかという逸話がある。
一説では、幼少期より数奇な運命を辿る事になった秀秋は、それによって精神的に追い詰められていた為に、飲酒にふける傾向があったらしく、過度なアルコール摂取による内臓疾患が死因ではないかとされている。
考察
裏切り?
近年の研究では、小早川秀秋は開戦前から東軍であったと言う説が強く提唱されている。
戦前から東軍による小早川家への調略は盛んに行われており、逆に小早川家の方から、黒田長政を通して家康に東軍寄りである事を示した書状が現存している。
一方、三成・吉継ら西軍首脳もこの動きを察知しており、三成は秀頼が成人するまでの間の関白職などを約束して慰留を行っているのだが、五奉行であったとはいえ、ただの家臣に過ぎない三成に地位や土地等といった恩賞を与える権限を持っているはずなど無い為、これは秀秋の寝返りを防ぐ為のその場しのぎ的な約束でしかなかったと思われる。
その後、前述したように西軍の伊藤盛正を追い出して松尾山に布陣している。この時点ですでに東軍としての旗色を明らかにしていると考える方が、従来説より自然なのである。
三成ら西軍は、要所である松尾山を東軍・小早川秀秋に抑えられてしまったため、仕方なく大垣城を出撃し関ヶ原に逃れ、そこで東軍の攻撃を受けて壊滅した……と言う説が、現在有力説として唱えられているのだ。
ただ、この時期の研究はまだ半ばであり、未だ謎も多いため、確実に従来説が覆ったとまでは言い難い。今後の研究が待たれる。
なお、「徳川軍に鉄砲を撃ちかけられて裏切りを決意した」と言う説も有名だが、当時使用されていた銃の銃声の大きさや戦場の喧騒を考えると、到底小早川軍に届くほどの音量にはならず、非常に疑わしい。この為か、一部のドラマ等では、銃ではなく大筒(大砲)が撃ち込まれる展開になっているのもある。
小早川秀秋は暗愚だったか?
秀秋への悪いイメージは昔から付きまとっており、「優柔不断で暗愚、人望も薄く一門の長でありながら兄たちに劣る」と酷評されていた。しかしながら、朝鮮出兵で武功を立てたことに加え、岡山藩主として家老たちの補佐を得ながらも無難な執政ができており、領民からも慕われていたという。
また無名の若者が天下人・秀吉から寵愛され、名将・小早川隆景の養子となり三十万石以上の大名となるという恵まれ過ぎた境遇に、不快感や妬みを持つ人物がいてもおかしくはない。
こうした評から、彼を一概に暗愚と扱う説には疑問が呈されている。周囲の嫉妬と価値観の変遷が数百年にわたって「愚将・秀秋」の評を強固に後付けした、とも十分見られるのである。
創作においての扱い
関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍に寝返ったという印象が強いため、小早川秀秋は卑怯者・優柔不断というイメージが強く、大河ドラマやアニメ・ゲームなどの創作でもそれが反映されていることが多い。
戦国無双
武器:2~4まで槍(ただし2の裏切りムービーでは刀を所持)、刀剣(4Empries)
CV:岡本寛志(chronicle 2ndまで)
「秀秋を・・・裏切り者の軟弱者と呼ぶな呼ぶな呼ぶな!」(Empでの特殊セリフ)
「怯むなー、鉄砲より叔母上の方が恐いぞ!」(2の関ヶ原乱入)
「叔母上の方が恐い、味方にはなれぬ!」
「我らの敵は三成だ、これより西軍を攻めるぞ!」(3の裏切り時台詞)
「叔母上!?いや、今、叔母上にお味方しようと…!」(3猛将伝:ガラシャの章・関ヶ原の戦いより)
2から初登場。普通のシナリオだと史実通りに西軍から東軍に寝返るが、叔母のねねに頭が上がらず、彼女が関ヶ原の戦いに乱入した際には西軍でも東軍でもなくそちら側についた。島左近に非難されようと「我らは東軍でも西軍でもない、ねね軍だ!」と言ってのけ、布施孫兵衛に銃撃されようと服部半蔵に脅されようが、ねねを裏切らなかった。(秀秋曰く叔母上の方が怖いとのこと)ねねに頭が上がらないというのは後続の作品でも受け継がれており、戦国無双3猛将伝のガラシャの無双演武の関ヶ原乱入ではねねと接触しガラシャ達に味方(その際につられて小川祐忠と脇坂安治が味方についた)、戦国無双chronicle2ndでもねねに見つかり半ば強引に味方した。また豊臣秀吉の外伝の関ヶ原では、裏切らずに頑張りましたと言っている。
なお3の明智光秀の章や4-Ⅱではプレイヤー側に寝返ることがない。3では他のシナリオと同じく西軍に属すが、何故か西軍が有利と判断して裏切ろうとしない。4-Ⅱでは西軍シナリオは裏切りを阻止できず(例え吉継シナリオでも)、東軍シナリオでの末路は「砲撃開始直後で吉継に処断される」または「既に説得されてきれいな秀秋になる」。
4Empriesでは固有武将の1人として登場し、武器が変更されて登場した。
また、GREEで配信されていたソーシャルゲーム100万人の戦国無双にも登場した。
戦国BASARA
詳しくはこちらを参照。⇒小早川秀秋(戦国BASARA)
采配のゆくえ
詳しくはこちらを参照。⇒小早川秀秋(采配のゆくえ)
殿といっしょ
おねの甥であり、目元がやや似ている。
とてつもなくのん……………っびりした青年で、度を越した優柔不断であり、関が原の戦いでどちらにつくかを花占いで決めようとするなど恐ろしく決断力に欠ける。そのあまりのノンビリ屋ぶりは、本作屈指の我慢強さを持つ家康ですら「どうしよう ワシこれ以上待たされたらあいつを鉄砲で撃ちかねん」と言わしめているほど。
戦国武将姫MURAMASA
紫髪ツインテオッドアイのロリ娘(イラスト右)。
ゲーム中では宇喜多秀家(イラスト左)との関係がクローズアップされている。
まだ羽柴秀俊と名乗っていた頃は、一緒に豊臣秀吉が開いた吉野の花見に参加するなど秀家らと親交があったが、秀秋が関ヶ原の戦いで西軍を裏切った事で関係は断絶、深い恨みを買う事になる。ここまでは(キャラデザを除いて)史実通りである。
しかし2013年夏に開催されたイベント「宇喜多の夏日記2」にて、八丈島に流されて一人寂しく余生を過ごしている宇喜多の元に、秀秋が船で尋ねに来るというシナリオが展開された。宇喜多は秀秋の謝罪を受け入れ、再び友として秀秋を迎えて共に夏を過ごす。
しかしこのシナリオには、プレイヤー達から不穏な予測が建てられる事になった。
- 時期的に考えて、宇喜多が八丈島に居る時点で秀秋は既に死去している
- 秀秋のカード名が「精霊船」、スキル名に「弔鐘」、秀家との特定連携名が「盆の迎え火」
- イベント最終日、公式twitterでの秀秋の「これが最後の裏切り」と言う呟きと、姿が見えなくなった秀秋を必死に探し回る宇喜多の様子
これらから導き出された答えは、「秀秋は既に死んでおり、精霊船に乗った魂がお盆の期間だけ宇喜多に会いに来た。盆(イベント)が終われば秀秋はあの世へ帰り、宇喜多は再び友を失って一人ぼっちに戻ってしまう。」というものであった。
しかし実際にイベントが終わってみると、そこには元気に宇喜多と海の家を営む秀秋の姿が!
「さんざん思わせ振りな演出をしておいて投げっぱなしかよ!」と困惑するプレイヤー達はやがて気付く。秀秋が裏切ったのは、プレイヤー達が予測した悲しい未来だったのだ。
MUSASHI-GUN道-
『MUSASHI -GUN道-』にも登場。声優は武藤正史。
関ヶ原の戦いの功労者だが捕えられてしまい、それを根に持ち徳川幕府に復讐をしようと考える。
ムサシの持ったGUN鬼の銃を奪った直後に精神をGUN鬼に取りつかれてしまい暴走。その後、銃はムサシの手元に戻るが小早川はヤシャに連れ去られてしまい以降、物語から姿を消す。
「何故後ろに月が!?」「皆殺しだアヒャヒャヒャヒャ!!」といった迷台詞と声優の怪演も相まってか放送当時はカルト的人気を引き起こした。ちなみになかなかのハンサムボーイである。
風雲児たちシリーズ
せっかくなのでこのバージョンも貼っておこう。こちらは漫画家のみなもと太郎氏が書いたバージョンで「アホだった」説を採用し、「本人の肖像画」に「坂田利夫と言うかアホの坂田」を混ぜたデザインで、外見どおりアホである。
これは史実通りなので他のに比べたらメチャクチャだが、みなもとさんだから仕方ないね、興味があるなら、一応関ヶ原の戦いで重要な仕事を為した上に、戦後処理でひどい仕打ちをされた悲劇の男として描かれる、風雲児たちシリーズにも是非目を通して貰いたい。