概要
足利氏から始まり、織田家、豊臣家が使用した城で二条城と呼ばれるものもあるが、現在あるのは徳川家が築城したものである。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後に京都での宿所として建て、1603年に落成。
同年2月に征夷大将軍に補任された家康は本城で拝賀の礼を行っている。
3代将軍家光の時代に完成を迎え、以降将軍家の上洛の際の宿として利用される。
伏見城の部材が一部に使用されている。
1867年、本城滞在中の第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を公にした。
奇しくも江戸幕府の発足と終焉(結果としてであるが)の場となった。
1952年に二の丸御殿が国宝に指定され、1994年に世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成遺産として登録されている。
歴代二条城
足利義輝の二条御所
室町幕府第13代将軍将軍・足利義輝が自らの居城として築いた初代二条城。
戦国乱世にあってすっかり失墜した幕府の権威を取り戻すべく、歴代の将軍たちが居館として利用してきた「花の御所」を引き払い、応仁の乱を初めとする京都を襲った諸戦乱に何度も持ち堪えた実績を持つ斯波家の居館「武衞陣」の跡地に、新御所を築き上げた。
その後、三好長慶死去後に三好家の実権を握った三好三人衆や松永久秀との対立が深まる中、身の危険を感じながらも都落ちを良しとしなかった義輝によって本格的な要塞化が推し進められていたが、先手を打った三好家の襲撃を受け、義輝の討死と共に焼失した。
足利義昭の二条城
室町幕府第15代将軍・足利義昭のために織田信長が築いた二代目二条城。
信長によって新たな将軍となった義昭であったが、本圀寺の変によって兄・義輝の二の舞になりかけたことで、本格的な防衛拠点が必要であると考えた織田信長によって築かれた。
規模としては「館」の域を出るものではなかったが、築城の際には信長自ら普請奉行を務め、石垣や天守まで備えたその堅牢さは城郭に匹敵するほどの立派な造りの城館であったという。
しかし、その後信長と義昭との対立が深まると、義昭が各地の大名を扇動して反信長の動きを見せたことで織田軍に攻められ、義昭降伏後に破却・廃城となった。
織田信長の二条城(誠仁親王の二条御所)
織田信長が京都滞在中の居館・宿所として利用するために築いた三代目二条城。
当時「洛中洛外図屏風」にも毎回描かれるほどの名所の一つであった二条家の旧邸宅を信長が譲り受け、名所としての所以を残しつつ先代二条城と同様の城館に改修した。
しばらくは当初の目的通り信長の京都宿所として利用されたが、後に時の皇太子・誠仁親王に献上され、以後はその邸宅として使われるようになった。
しかし、本能寺の変で明智光秀によって信長が討たれると、追い詰められた嫡男・織田信忠が僅かな手勢と共に逃げ込み籠城、光秀の大軍の前に抗し切れず、落城・焼失した。
豊臣秀吉の二条城
豊臣秀吉が築いた四代目二条城。
本能寺の変で信長の先代二条城と共に焼失した妙覚寺の跡地に築かれたため、位置も非常に近く、「妙覚寺城」の別名でも親しまれた立派な城館であったという。
聚楽第完成までの間、代用の政庁・居館として秀吉が利用、その後は豊臣政権で京都所司代を務めた前田玄以が管理を引き継ぎ、所司代在任中の居館として利用した。
ちなみに、秀吉は信長生存時にも、先代二条城の近くに自身の宿所屋敷を設けている。
徳川家康の二条城
江戸幕府初代将軍・徳川家康が築いた五代目二条城。現存するものがコレ。
家康が上洛時の京都における宿所として築き上げたもので、これまで以上に本格的な城館として設計されているが、それでも[[征夷大将軍の住まう城としては不十分だった。
もっとも、これには一日二日程度持ち堪えられれば援軍到着までの時間稼ぎには十分であったことと、敵に奪われた際に取り返すのに時間がかかると面倒なことになるため、敢えて必要最低限の防備能力しか持たせていないからという理由がある。
家康と豊臣家の最終決戦で本営などに利用され度々名前が挙がった他、その後も歴代将軍の京都宿所として利用され続け、幕末でも活躍の機会があるなど、後世でも有名になっていった。
擬人化
(3・4枚目)