島左近
しまさこん
島左近とは、島清興(しま きよおき)の通称。
概要
出身:大和国
生誕:天文9年5月5日?(西暦1540年6月9日)
死没:慶長5年9月15日?(西暦1600年10月21日)
島清興は安土桃山時代の武将で石田三成の軍師として仕えた人物である。
元は大和国の武将・筒井順慶を主君とし、かの戦国の梟雄松永久秀と度重なる戦でその卓越した軍略を磨いていったとされる。
しかし、主君の死後に代替わりした新たな主君(筒井定次)の非道な政治に絶望し、近江へと去って浪人生活を送る。ちなみに武田家に仕えていたという俗説があるが、これは『天元実記』にある関ヶ原開戦の直前に島津豊久に対し「若い頃は武田信玄に仕官し山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」と語っていたという逸話かららしく、真偽は不明である。
その後、引く手数多の声ある中で、特に彼に熱心だった石田三成に仕えることを決意する。
引き入れた当時、俸禄4万石の三成が左近を2万石で召抱え、のちに三成が出世した折に彼が左近の家禄を増やそうとしたが拒否されたという左近の義理堅さについての逸話もあるが、これには諸説あり、左近を召し抱えた時にはすでに佐和山で19万石という高禄を貰っていたという説もあり、定かではないが近年はこちらが有力視されているらしく、もしそれが事実の場合は、半分と言う美談は否定されるが、
(三成が俸禄500石の折、柴田勝家、豊臣秀吉の誘いも蹴った渡辺勘兵衛新之丞を召し抱えたと聞き、秀吉が三成にどうやってかの者を雇えたのか聞いたところ、知行の全てを与えました。今では私が彼に養われています、と答えたという話があり、島左近を召し抱えた折の逸話はそれをアレンジしたものという説もあり)
それでも破格の待遇であり、三成に優遇されていたことは間違いなく、
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」
と謳われている。
同時に三成の悪癖であったとされる『人を見かけで判断する』ことをたしなめるのも、左近の役割だったという。
関ヶ原の合戦では一軍を率いて奮戦するが、敵の銃撃に合い討ち死にしたと伝わる。
この戦いで左近は、敗北が決定的となったその時に三成を守らんと敵陣に向かって特攻を敢行したという。この左近の軍勢と相対した黒田長政の配下は、左近の鬼気迫る壮絶な勢いに恐怖し、関ヶ原の戦いののちも、この合戦を思い出しては迫りくる"左近の悪夢"にうなされたという。そればかりか、当時左近の部下として働いていた男に聞かないと見た目を思い出せない程恐怖を感じていたらしい。
ただし、左近の首も遺骸もみつかっておらず生き延びたとする説もある。
余談だが、柳生新陰流剣術で知られる柳生家と関わりが深く、江戸柳生家の始祖である柳生宗矩とは、彼の父である宗厳(石舟斎)が筒井家に仕えていた縁で交流していたとされ、宗矩は関ヶ原の合戦前に家康に命じられ、偵察も兼ねて左近の元に挨拶に出向いたという。また、左近の娘である珠は、尾張柳生家の始祖である柳生利厳(兵庫助)の継室で、利厳の息子で剣豪として名高い柳生厳包は、左近の外孫にあたる。
創作作品における島左近
影武者徳川家康
本名・島左近勝猛。
関ヶ原の戦いにおいて、配下の忍・甲斐の六郎を差し向けて徳川家康を暗殺させた張本人。
しかし、家康の影武者である世良田二郎三郎の機転により東軍の指揮は下がらず、小早川秀秋らの裏切りもあり戦況は一変し、西軍は敗走する。
自身も銃弾により瀕死の重傷を負うが、六郎の救出と介抱により一命をとりとめる。
その後、六条河原で斬首刑を執行するため護送中だった主君・三成と再会し、影武者とともに豊臣秀頼を守る使命を託される。
なお、原哲夫によって漫画化もされた本作だが、『SAKON(左近)-影武者徳川家康外伝-』では、墨炎という頑強な戦場刀を愛用したり、背中に「義(羊に死を合わせた造漢字)」と書いた陣羽織を着用するなど様々な脚色が追加された。
戦国BASARAシリーズ
CV:中村悠一
石田三成の側近。賭け事を何より好む。
身軽なスピード型で、「斬り」と「蹴り」を駆使したアクロバティックな攻撃を得意とする。
発売前情報で「”豊臣秀吉の左腕”である三成の傍ら(近く)に居る」ことから「左近」と名乗るシーンが公開されている。
さらに詳しくは島左近(戦国BASARA)を参照。