概説
サンスクリット語ではマンジュシュリーという。
漢訳仏典では妙吉祥菩薩、文殊師利法王子などと表記される。
前者は意味を訳したもの、後者は読みを漢字で再現したものである。
「三人寄れば文殊の知恵」のことわざにあるように智慧の菩薩として知られる。ただ学業などの知識の分野は虚空蔵菩薩の領分であり、文殊菩薩は“苦境を脱する閃きと判断力”を授ける役割を担っている。
わかりやすく砕いて言うなら、虚空蔵は雑学・文殊はパズルにそれぞれ強いのだ。
普賢菩薩とともに釈迦三尊の一人として釈迦如来の脇侍をつとめる。
仏の智慧を象徴する利剣と経典(お経、経巻)を持ち、獅子に乗った姿で描画・作像されることが多い。
漢訳仏教圏では唐獅子に似たデザインで、チベット仏教の文殊菩薩像が乗るライオンもそこまでリアルではない。この獅子は赤い体毛をしていることが多い。
祇園精舎のあった舎衛国のバラモン家系の出身という現実的な出自を与えられ、
大乗仏典の編纂に関わったという伝承も存在する。こうした位置付けのためか、他の菩薩衆と異なり、モデルとなった人物がいたかもしれないと言われている。
道元が中国で学んでいた時の記録『宝慶記』によると小乗経は阿難(アナンダ)が
大乗経は文殊菩薩が結集を行った、とある。このほか文殊菩薩が大乗仏典の結集に参加したとする文献としては『大智度論』(般若経典の一つ『大品般若経』の注釈書)などがある。日本においても『教時諍』(天台宗の僧・安然の著作)や『浄土法門源流章』(華厳宗の僧・凝然の著作)がこの伝承をとりあげている。文殊菩薩のほか弥勒菩薩も大乗の結集に参加した菩薩として挙げられる。
チベット仏教における文殊菩薩
チベットにはもともと文字が無かったとされる。観世音菩薩の化身とされるソンツェン・ガンポ王の作とされる埋蔵経典(テルマ)『摩尼全集』によると、ソンツェン・ガンポ王の時代、文殊菩薩はトンミ・サンボータという賢人として地上に現われた。王から旅費を渡された彼はインドに渡り、バラモンから文字を学んだあと、108人の学者たちから大乗の教えを学んだという。彼は知識だけでなく膨大な仏教典籍を持ち帰り、ソンツェン・ガンポ王に文字と共に伝えたとされる。そして彼は仏典をチベットの言葉に翻訳したという。
大乗仏典の結集に文殊菩薩(マンジュシュリー)が関わったとする伝承はチベット仏教にも存在する。 『プトゥン仏教史』では普賢菩薩(サマンタバドラ)、弥勒菩薩(マイトレーヤ)、金剛手菩薩(ヴァジュラパーニ)と共に「根本結集者」として挙げられる。結集には百万の菩薩が参加したとされるが、彼等はその代表という事になる。
マイトレーヤは律(戒律に関わる部分)を、グヒヤカディパティ(ヴァジュラパーニ)は経(スートラ、お経)をマンジュシュリーはアビダルマ(経と律についての理論的考察、研究)についてまとめたという。
文殊菩薩はゲルク派開祖ツォンカパの前に現れ、彼を導いたと伝わっている。
御利益
智慧明瞭、学業成就、卯年の守り本尊
御真言
オン アラハシャ ノウ