伏見宮博恭王
ふしみのみやひろやすおう
伏見宮博恭王とは日本の皇族、海軍軍人、伏見宮25代当主。
プロフィール
経歴
誕生から華頂宮相続まで
1875年(明治8年)貞愛親王の長男として誕生した。生母は河野千代子(女房)であり貞愛親王の庶子である。本来は臣籍降下をして華族になるが伯父の華頂宮博経親王が薨去し博経親王の子博厚王が8歳で薨去したことで華頂宮を相続し博恭王と改名。
海軍の軍人として
1886年(明治19年)に海軍兵学校に入学する。3年後に退学したがドイツに留学する。ドイツ海軍兵学校と海軍大学校で学び留学中に海軍少尉その後卒業し貴族院皇族議員に就任。
帰国後巡洋艦や戦艦の艦隊勤務をする。1897年(明治30年)に徳川慶喜の九女経子と結婚。その後の1903年(明治36年)少佐、翌年の1905年(明治38年)に伏見宮に戻る。博忠王が華頂宮を相続。日露戦争では黄海海戦の時に戦艦三笠の分隊長の時に負傷。1913年(大正2年)に横須賀鎮守府司令官・海軍大学校校長・第二艦隊司令官に就任。1922年(大正11年)に海軍大将、1932年(昭和7年)に軍令部長、その後海軍元帥。1940年代に脳出血などで医療生活し、1946年(昭和21年)に薨去。