朝融王妃知子女王
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あさあきらおうひともこじょおう
朝融王妃知子女王とは日本の皇族。
明治40年(1907年)に誕生、大正13年(1925年)に久邇宮朝融王と結婚した。こちらの婚約には不良皇族とまで呼ばれ、直前に酒井菊子との婚約破棄をした朝融王に頭を悩ませていた伏見宮本家の博恭王はこのことを受け、娘の知子女王を敢えて朝融王の元に嫁がせることで皇室内の空気の引き締めを図ったとされる。
しかし、朝融王の素行不良がこれで収まることなく家付きの侍女を妊娠させてしまったという。そんな朝融王に対し知子女王は「私は犠牲になることを覚悟していた」という旨の発言を行っている。
昭和22年(1947年)に薨去。死因は9人目の子どもを懐妊中の、その時の妊娠中毒症の悪化によるものだったとされる。
なお、夫の朝融王は知子女王の薨去後なんと菊子とのヨリを戻したいと考え、実際に家まで押し掛けたとされる(菊子は加賀前田家16代当主の前田利為侯爵に嫁いでいたが、夫は戦死しやはり寡婦であった)。
しかしそんな朝融王を菊子は一蹴。
その後も多くの女性と浮名を流すも朝融王は寂しい晩年を過ごしたとされる。
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