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えびすの編集履歴2019/10/30 12:21:05 版
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概要

七福神のうちで唯一の日本出身の神。

漢字では恵比須恵比寿恵美須と表記されるのが一般的。

他の表記の一つに「蝦夷」があり、中央から見た地方、異邦の神という性格を持つ。

に流された神ヒルコと同じく「蛭子」とも表記し、同一視もされる。

他に同一視される神として事代主がおり、全国に分布する「えびす神社」の祭神の大半はヒルコか事代主である。

えびす=事代主、大黒天大国主という解釈をとるなら二人は親子ということになる。

実際、七福神の中でも大黒天と一組で祀られる事が多い。

イルカジンベエザメのような大型の海洋生物も「えびす」と呼ばれ(彼らがやって来る事はとなるも来ている事を意味するため)海の恵みをもたらす存在として尊ばれ、特に鯨は浜に打ち上げられると住民達に大量の食料や臨時収入をもたらす。

えびす神は「異邦(海の向こう)からやってきて恵みを与える漁業の神」であると言える。

異なる場所から実利を運んでくるという性格からか商業の神としても祀られるようになった。

神々が出雲に集まる神無月において、そこに行かず留守を守ることから家内安全の神とされ、さらには五穀豊穣も司るとされた。

現世利益の、かなり広範なジャンル(神徳)をカバーする神となっている。

図像表現

中世以降、円満形の釣魚翁の姿で描写されることがほとんどだが、「異相」を持ち人から見られる事を嫌ったとする伝承も存在する(元禄十四年(1701年)刊『摂陽群談』巻第十一、正徳五年(1716年)版『本朝怪談故事』巻第四の第三「西宮ノ居籠祭」)。

室町時代から江戸時代まで西宮神社の周辺に存在した居籠祭(いごもりまつり)の慣習と絡めて語られた言い伝えである。一月の十日えびすの前夜にあたる1月9日の夜は市中をエビス神が駆け回るとされ、その間は外出を控える、という慣習だが、その理由付けとして語られている。

ただし、西宮神社の祭神「西宮大明神」としての図像表現は円満形の一般的なエビス像となっている。

持物は魚(鯛)や釣り竿が代表的、葉の生えた笹であることもある。折れやすいためか釣り竿は持たされず握り拳にしたり(穴が開けられ釣り竿を持たせたり交換が可能になっている仕様のものもある)掌をひざの上に置いた形である事も多い。

日蓮宗妙厳山本覚寺(神奈川県鎌倉市)の夷堂に祀られている「夷尊神」像は、岩上に座し、左足をおろし合掌する。体躯は引き締まっており持物は一切ない珍しい形である。

引き締まったえびす像としては他に粟田神社(京都府京都市)の摂社「出世恵美須神社」の木像(伝・最澄作)がある。現存する寄せ木作りの像としては最古の作例とされる。

宝田恵比寿神社(東京都中央区)の運慶作と伝わる恵比寿神像は肩幅も広く、円満というよりはガッシリ形の作例。

後述のスクナヒコナ同体説に基づくのか、大きな鯛の上に乗ったそれより遙かに小さな人物像として造型された像もあり、西宮神社に奉納されている

明確にスクナヒコナ同体説をとる神田明神の境内、鳳凰殿の隣に波間の舟の上に立つ小人型のえびす像が建てられている。平成17年(2005年)建造。現代的な造型であるが、しめ縄が張られ、前には賽銭箱が置かれており、正式な尊像として位置づけられている。

同体とされる神

ヒルコと事代主のほか、以下の神にえびすとの同体説がある。

スクナヒコナ神田明神薬祖神社など

火遠理命山幸彦):籠神社の摂社、蛭子神社(恵比寿神社)、京都府京丹後市の蛭兒神社(ひるこじんじゃ)

文献における同体説

ヒルコ説

『神皇正統録』(『神皇正統記』とは別の文献)の上巻に「蛭児トハ西宮ノ大明神夷三郎殿是也此御神ハ海ヲ領シ給フ」という記述がある。ヒルコは西宮神社の祭神の「夷三郎殿」であり、海を統治する神とする。『平家物語』の異本『源平盛衰記』では海を支配する神となったのは摂津の国に漂着してからだとする。それから「夷三郎殿と顕れ」西宮(神社)に鎮座したという。

このほか『塵添壇嚢砂』巻八、清原宣賢『日本書紀神代巻抄』がえびす=ヒルコ説を支持する。

シオツチノオジ説

ヒルコのほうは記紀に直接記されているが「夷」のほうはそうではないことから、後者を別な時に顕れた他の神であるとする説は神道家によっても唱えられていた(卜部兼満『神武拾遺』「蛭子夷事」)。この書にある兼満の説によれば老翁の姿は夷のほうの姿である。そして夷とは塩土老翁(シオツチノオジ)の異名とする。

西宮の医師・田中信謹は享保十二年(1727年)の『広西両宮記』のなかで、西宮神社の南にあった「現戎子(あらえびす)」「澳戎子(おきのえびす)」という社の神が実際のえびすであり、その像がヒルコのそれと混同されたとした。彼はまた『神祇拾遺』『神道啓蒙』に記された西宮社の客人神を塩土老翁とし、この神が漂着したヒルコを助けるために釣りをした姿が像となって残ったものが釣魚翁像としている。

ただし、事代主や少名毘古那神や彦火々出見尊と異なり、現存する信仰の場としての各えびす神社において塩土老翁をエビス神とする例は確認できない。

コトシロヌシ説

貝原益軒は元禄七年(1695年)刊の『和爾雅』において、「俗所」で言われる異説として事代主をえびすとする説の存在を記録している。説の根拠となっているのは『日本書紀』巻第二神代下第九段本文にある、この神が釣りをするシーンである。

文政13年 (1830年) 刊『嬉遊笑覧』では牽強付会として退けられている。

江戸時代前期から中期に跨がる時期に活動した神道家・井沢蟠竜は『広益俗説弁』において、西宮神社のヒルコ漂着伝承とえびすとの同一視を「此蛭児の船、摂津国にながれ着、其所の夷もりそだて〜夷三郎と号し、後に西ノ宮明神と現ずといふ事、正史・神籍にかつてなき偽説なり」(巻三神舐「大黒・夷子の像の説」)とバッサリ否定し、事代主こそがエビス神としている。

スクナヒコナ説

平田篤胤は『志都乃石室』において夷神はスクナヒコナ神をまつったものだという説を展開した。スクナヒコナはえびすとセットで祀られる大黒天と同一視されるオオクニヌシと一緒に行動した神である。彼は同書において「夷」という名称の由来を「小ささ」という特異性にもとめている。西宮神社の祭神としてのヒルコをえびすと呼ぶ事について「混雑した物」と見なしつつも、その呼称の由来も(ヒルコが三歳までに立てずに御子の列に加えられなかったという)特異性故であろうとしている。

ホオリ説

大寂庵立綱は文化十四年(1817年)の『萍の跡』において「かの御名の咲眉主(エビス)ハ為笑〔エマス〕の義なるべし、眉とかきて美とよむハ読法にて、恵美須〔エビス〕 咲満春〔エマス〕そのことおなじ」と記し、えびすの神名を「笑み」「笑い」の含意があるとした。またホオリ神の説話と結びつけ「この御名ハ字のごとく火々の義なるを、含笑を ほ〜ゑむといふ義とおもひて、恵備春とハいひはじめけん」とエビス神の名の由来をホオリの名の一つである「彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」とした。

本地

えびす神について文献上の記述で最古に遡れるのが『伊呂波字類抄』という文献であり、ここでは「夷」表記で言及され、本地は毘沙門とされる。広田神社の末社について列挙するくだりであり、同時に記される「三郎殿」という神の本地は不動明王とされる。

『諸社禁忌』では同じく広田神社の末社を述べるくだりがあるが、こちらでは「衣毘須」の本地が不動明王で、「三郎殿」の本地が毘沙門天になっている。

『慶長見聞集』ではイザナギの子として三貴子(日神=天照大神、月神=ツクヨミ素盞嗚)に続く四人目の子として蛭子(ヒルコ=えびす)が言及され、「三郎殿」はその別名という形で統合され「ゑびす三郎」とも呼ばれているが、その本地は阿弥陀如来とされている。

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