経歴
本名は内藤美保子(ないとう みほこ)。旧姓は河野(こうの)
東京府東京市麹町(現在の東京都千代田区麹町)で生まれ、東京電燈(のちの関東配電、東京電力の前身にあたる)に勤めていた父の仕事の都合で新潟県に転居する。
長野県飯山高等女学校を中退後、第27期生として宝塚音楽歌劇学校に入学した。
初舞台からしばらくはそれほど目立つ存在ではなかったが、徐々に頭角を現し、男やトップスターにまで上り詰めた。
1950年、宝塚在籍のまま映画や外部劇場ミュージカルへの出演を始め、同年の7月31日を以て退団する。
退団後は東宝の専属スターとして長年にわたりミュージカルなどに出演し、人気を博した。また、歌手としては翻訳家の岩谷時子と組んでシャンソンや映画音楽を中心に活動した。
日生劇場でのひと公演1ヶ月近くにもなるロングリサイタルは10年以上続けられ、劇団四季の演出家の浅利慶太による演出で、さまざまな趣向を凝らした舞台が披露された。
1959年に作曲家の内藤法美と結婚。二人の間に子供はなかったが、夫婦仲は良く、内藤が越路のリサイタル、ディナーショーの構成・作曲・編曲・指揮などを手がけていた。
1980年に米倉斉加年との二人芝居を終えた後、体調不良を訴え「重度の胃潰瘍」と診断される。
実際には「末期の胃癌」であったが、本人には知らされることなく治療が進められた。
その後は手術、リハビリを行うも、11月7日に東京共済病院で死去。享年56歳。
人物
「清く正しく美しく」をモットーとする宝塚歌劇団に在籍しながら、門限破りや喫煙などを行う「不良少女」として知られていた。
その一方で面倒見のよい人柄でもあり、後輩の芸能人らを可愛がっていた。また、同期の月丘夢路はその美貌を妬まれ、深刻ないじめに遭っていたが、越路に庇ってもらったことを後年述懐している。
三島由紀夫とは一時期交際しており、三島の母親は二人が結婚するものだと思っていた。
三島の戯曲『女は占領されない』で主演を務めたほか、命日の追悼集会「憂国忌」の発起人にも名を連ねていた。
このほか多数の文化人と交流があった。
『愛の讃歌』などの翻訳を手掛けた岩谷時子とは宝塚時代からの親友である。(岩谷は宝塚の出版部に所属し、東宝に移籍した際にも一緒に上京、入社している)
親しくなったきっかけは越路が「サインの見本を書いてほしい」と岩谷に頼んだことから。越路はその後も終生に渡ってこの時のサインを使い続けた。
マネージャーとして、翻訳家・作詞家として越路の活動を長年に渡り支援したほか、私生活でも最後まで寄り添った。
晩年には、越路が病床で煙草を吸ったり睡眠薬を乱用したりするのを、夫の内藤に代わって厳しく諫めたと後に語られている。
舞台衣装としてイヴ・サン=ローランやニナ・リッチを愛用していた。また、エルメスやルイ・ヴィトン、フェンディのバッグを好んで使っていた。
歌手として
1958年にはテアトロン賞、1965年には第7回日本レコード大賞歌唱賞、1968年には芸術祭奨励賞を受賞しており、歌手として多くの受賞歴がある。
「日本のシャンソンの女王」とも呼ばれ、大きな人気を博した。
岩谷と組んで多数の楽曲を歌唱・紹介し、日本でのシャンソン人気向上に大きく貢献した。また、日本語での歌唱にこだわりを持っていた。
高い歌唱力と表現力の持ち主で、パフォーマンスでもって魅せる歌手として多くの人に評価された。また、浅利は「シャントゥーズ・レアリスト(真実を歌う歌手)」と評した。
フランスの歌手エディット・ピアフに強く感銘を受け、生涯の目標としていた。ピアフの生の演奏に衝撃を受けたことがパリ滞在中の日記にも綴られている。
代表曲である『愛の讃歌』はピアフがオリジナルの歌手であり、その後も彼女の歌った楽曲を多数のカバーした。
また、ロングリサイタルでは劇団四季とタイアップし、「ドラマチックリサイタル」と称して、ピアフの生涯を歌とダンス、劇を通して表現する演目を披露している。
代表曲
シャンソンや映画音楽のカバーのほか、オリジナル曲も多数歌唱している。
など
関連リンク
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美川憲一…越路の大ファンで、淡谷の紹介で実際に舞台共演に誘われた
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