概要
1876年以降、朝鮮王朝は大日本帝国や欧米各国と不平等条約を締結。
これにより国論が二分。清朝との冊封体制を護持しようと主張する事大党(保守)と、日本の支援を受けて一国家として近代化を推す開化党(革新)との勢力争いが、1882年に壬午事変として勃発。
対岸の大日本帝国と大清帝国の両国が介入。2年後の日清戦争に発展する。
翌年、日本の勝利により下関条約が締結、清に対し朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。
これにより、1897年(明治30年)には朝鮮は清の属国でなくなり、清の冊封の象徴であった『迎恩門』や『大清皇帝功徳碑(別名:恥辱碑)』が倒され、独立を記念した『独立門』が新たに建てられた。
ロシア公使館に逃れていた高宗(朝鮮王)も戻り、国号を大韓と改めて皇帝に即位した。
しかし、中身は相変わらずの体で、近代化を進めていた開化党の独立協会は皇帝や親露派と結んだ事大党に潰され、1904年の日露戦争開戦時には皇帝が再びロシア公使館に隠遁。日本に敵対姿勢をとった。
翌年、日露戦争終結を受け米英露の三国に同意をとりつけ、韓国統監府が置かれた。
これは事実上、世界的に朝鮮半島が日本の保護下であることを公認した条約といえる。
半島内では朝鮮の日本への併合を望む声が高まり(実際には一部の知識階級を中心とした動きであり、尚且つ『併合』ではなく対等の立場での『合邦』を望むものであった。詳細はこちら)、さらに、ハーグ密使事件や伊藤博文(初代韓国統監)の暗殺事件が勃発。
併合慎重派の筆頭だった伊藤博文(暗殺直前の時点では併合推進の立場に転向していた詳細はこちら)が安重根によって暗殺されたことから、その後は一気に併合推進の路線に進み、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が調印され、29日に裁可公布して発効。
ここに大韓帝国は消滅。韓国統監→朝鮮総督の下で36年に渡り正式に日本の領土として統治され、朝鮮人は日本民族の一つとして、建前上は日本人と同じ身分と人権を与えられることとなったが、植民地として搾取される事への不満は消えず、「三一運動」や「光州学生事件」などの独立運動が起こることになった。
現在の大韓民国は、この大韓帝国を継承する体制を自称している。
歴代皇帝の一覧
初代・高宗(光武帝)
2代・純宗(隆熙帝)
朝鮮半島の変遷
新羅→高麗→李氏朝鮮→大韓帝国→朝鮮総督府→朝鮮人民共和国→韓国/北朝鮮