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蘇我馬子の編集履歴

2020-06-23 00:48:18 バージョン

蘇我馬子

そがのうまこ

日本の飛鳥時代に活躍した豪族・政治家。(551?~626)  

概要

父は蘇我稲目。子に蘇我蝦夷。孫に蘇我入鹿がいる。

敏達天皇用明天皇崇峻天皇推古天皇の4代にわたる天皇に仕え、蘇我氏の全盛期を築き上げた人物。


自邸に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも称された。


生涯

以下は「日本書紀」「古事記」に基づく。


572年、敏達天皇の即位時に若くして大臣となる。

584年、百済から来た渡来僧の影響を受け、馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。


585年、馬子は病になり、占いの結果「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀ろうとするが、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を捕まえて全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず天皇も守屋も病気になった。これを人々は「仏像を焼いた罪だ」と言った。


同年6月、馬子は病気が治らず、再び奏上して仏法を祀る許可を求めると、敏達天皇は馬子に対してのみ認めたという。

同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀の途中で馬子と守屋は大喧嘩に発展する。


守屋「(長い刀を差している小柄な馬子に対し)まるで矢に射られた雀のようだ

馬子「(緊張で体を震わせている守屋に対し)鈴を付けたらさぞ面白かろう


橘豊日皇子が即位し、用明天皇となる。


587年、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰しようと臣下たちに意見を問うた。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は是非そうすべきとして、穴穂部皇子に銘じて僧の豊国を派遣した。守屋は怒ったが、政治的に不利を悟って河内国へ退いた。


用明天皇が崩御。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、馬子が穴穂部皇子を殺害した。翌月、馬子は他の群臣と協議した結果、守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子は河内国渋川郡の守屋の居所を攻め、守屋は迹見赤檮によって射殺された。


同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。


588年、馬子は善信尼らを百済へ派遣した。


絶大な権力を持つ馬子と崇峻天皇は次第に不仲になっていった。詳細は不明だが崇峻天皇は馬子によって暗殺されたという説がある。ただ宮中に特段の動揺もないことから馬子個人の策謀ではなく皇族や群臣たちの了解を得たうえでのクーデターとも言われる。


馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。


596年、馬子は飛鳥寺を建立した。


620年、聖徳太子と協力して「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を記す。


623年、馬子は境部雄摩侶を大将とする軍を新羅に派遣した。


624年、馬子は葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「それは流石に・・・」と拒否された。


626年、馬子が世を去る。


人物

奈良県明日香村にある石舞台古墳は蘇我馬子のものと見られる。

その巨大な石室は、馬子がいかに強大な人物であったかを伺わせる。


朝鮮半島との外交を司っていた。

日本史上初の女性天皇である推古天皇を即位させ、その叔父として絶大な力を振るった。

摂政・聖徳太子と共に仏教を推進し、冠位十二階を定めた。遣隋使を派遣しての文化を輸入するにまで至った。


聖徳太子との関係は良好なものであったようだ。


余談

名前からして女性を連想させるが、れっきとした男性である。

これは、当時の風習では気にされておらず、聖徳太子、小野妹子も同様である。


関連タグ

飛鳥時代

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