榎本喜八
えのもときはち
概要
1955年に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)にテスト生として入団。高卒選手ながら一軍でプレーし、5番・ファーストとしてレギュラーを獲得した。
バットの芯で正確に球を捉え、打球するさまから「安打製造機」の異名を持っていた稀代の天才打者。同時代を知る関係者からは川上哲治、王貞治を差し置いて「史上最高のバッター」と口を揃えて評される。
その打者としての評価も「勝負というより果たし合い(稲尾和久)」、「何投げても打たれる気がする(38勝をあげた時の杉浦忠)」など、異様さを物語るものが多い。
特に傑出していたのが選球眼で、数多く対戦した野村克也によれば「榎本はcm単位でストライクゾーンを把握していた」といい、後年も事あるごとに榎本以上に恐ろしいバッターはいないと語っている。
それでも王の記録を上回れなかったのは、王が力の抜きどころを知っていたのに対し際限なく打撃を高めようとしたあまり、肉体の衰えを知るとあっという間に心身の余裕を失ってしまうほどの繊細な精神にあったという。また、そんな繊細さ故に、ファンが浴びせてしまった心ないヤジを真に受けてしまい、へこんでしまう事もしばしばあったという。
1960年には首位打者のタイトルを獲得。オリオンズの主力選手として同年、リーグ優勝を果たした。1968年7月21日の対近鉄バファローズ戦ダブルヘッダー第1試合において2000安打を達成している。これは川上哲治、山内一弘(チームメイトだった時期がある。また、山内がオリオンズを「追い出され」てからも仲が良かった)に次いで3人目だった。 さらに、31歳7ヶ月での達成は日本プロ野球最年少記録であり、今なお破られていない。
1972年に西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)にトレード移籍したが、代打での出場がメインになり、同年通算2314安打という成績を残し現役を引退。
打者としての輝かしい栄光の一方で、かなりアナーキーな行動をやらかしまくったことでも悪名高かった。オールスター戦にてダッグアウトで座禅を組んで川上を困惑させたのはまだいい方、猟銃をもって意味のわからないことを叫びながら自宅に引きこもる、と言う事件まで起こしてしまった(長らく都市伝説扱いだったが、榎本本人が晩年に「確かに俺そんなことやっちゃいました」と認めている)。
現役引退後は自分の後継者を育てる夢を持っていたが、そのあまりに難解な打撃理論とイカれた言動のせいで敬遠され、ついにかなわなかった。後年はアパート・駐車場経営で生活をし、悠々自適な生活を楽しんでいたようである。また、野球から一歩離れると、とても優しい父親であったと、彼の息子は証言している。
2016年1月18日、ソフトバンクの工藤公康監督、元巨人の斎藤雅樹氏、バルセロナ五輪日本代表監督の山中正竹氏、元衆院議員の故松本瀧蔵氏と共に野球殿堂入りを果たした。