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東映フライヤーズの編集履歴

2020-11-23 08:20:04 バージョン

東映フライヤーズ

とうえいふらいやーず

現在の「北海道日本ハムファイターズ」の源流のプロ野球球団。

現在の北海道日本ハムファイターズの源流のプロ野球球団。

本記事では、1954年~1972年までの球団の歴史について解説。以前の歴史については「東急フライヤーズ」を、1973年については「日拓ホームフライヤーズ」を、1974年~2003年については「日本ハムファイターズ」を、2004年以降については「北海道日本ハムファイターズ」の記事をそれぞれ参照。


球団史

駒沢の暴れん坊と「安打製造機」張本の活躍

東京急行電鉄(現在の「東急」、「東急電鉄」は分社化)は1954年1月、当時東急グループの傍系企業でオーナー・大川博が社長を務めていた東映に球団運営を委託。この結果球団名が東映フライヤーズへ変更されることになった。


2リーグ分立以降、本拠地・駒澤野球場(駒沢球場)では「駒沢の暴れん坊」とあだ名されるほど自由奔放なプレーが目立ち、順位もBクラスに低迷していた。1959年、後に3000本安打を達成する「安打製造機」こと張本勲が入団。このシーズンに初めてのAクラス入りを果たす。


1960年水原茂が監督に就任。1962年に張本勲、土橋正幸尾崎行雄種茂雅之らの活躍で初優勝、日本一を飾る。1960年代後半は張本だけでなく大杉勝男白仁天毒島章一ら強打者が多数在籍。しかしそれ以降は優勝からは遠ざかり、「黒い霧事件」も発覚、また映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していった。


1973年に東映が日拓ホームに球団経営権を譲渡。チーム名を日拓ホームフライヤーズとした。


順位の変遷

順位監督
1954年7位※井野川利春
1955年7位保井浩一
1956年6位岩本義行
1957年5位岩本義行
1958年5位岩本義行
1959年3位岩本義行
1960年5位岩本義行→保井浩一
1961年2位水原茂
1962年1位水原茂
1963年3位水原茂
1964年3位水原茂
1965年2位水原茂
1966年3位水原茂
1967年3位水原茂
1968年6位大下弘→飯島滋弥
1969年4位松木謙治郎
1970年5位松木謙次郎→田宮謙次郎
1971年5位田宮謙次郎
1972年4位田宮謙次郎

※1956年まで8球団、1957年は7球団で、1958年より6球団となる。


主な選手

※優勝した1962年のメンバーを中心に紹介する。

投手

  • 土橋正幸
  • 尾崎行雄
  • 安藤元博
  • 森安敏明

捕手

  • 安藤順三
  • 種茂雅之

内野手

  • 大杉勝男
  • 山本八郎
  • 青野修三
  • 大下剛史

外野手

  • 張本勲
  • 毒島章一

助っ人外国人

  • ジャック・ラドラ
  • 白仁天

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